11月30日(月)は「ボニファシオ記念日(Bonifacio Day)」です。フィリピンの独立運動家・革命家であるアンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)の誕生日である11月30日を記念したもので、フィリピンの祝日となっています。
彼が生きた時代は、日本でいえば幕末から明治にあたり、日本だと維新三傑と呼ばれた西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂 小五郎)に坂本龍馬などが思い浮かびますが、フィリピンではフィリピン独立革命にかけて活躍した「ホセ・リサール」と「アンドレス・ボニファシオ」と「エミリオ・アギナルド」の三人の名前がまずあげられます。
彼らの名前は、紙幣や硬貨の肖像になったり、記念日として祝日になったりもしていますので、フィリピンと関わり、フィリピン人に知り合いができたなら知っておいて損はないと思います。
彼らは3世紀にも及ぶ植民地支配に抵抗した英雄であり、その革命によっては真の独立を果たすことは叶いませんでしたが、彼らの行動は今日のフィリピンつながっており、フィリピン人の精神的な基盤となる英雄ともいえます。
アンドレス・ボニファシオが生きた時代
ボニファシオが誕生したのが1863年11月30日、日本では文久3年です。といってもピンとこないかもしれません。
誕生のおよそ10年前の1853年7月にペリーが来航し、1860年3月に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されます。誕生した年の1863年8月には薩英戦争が勃発し、同年9月に八月十八日の政変、いわゆる「七卿落ち」で京都から攘夷派が一掃されます。翌1864年7月の池田屋事件で、長州藩、土佐藩などの攘夷派多数が新選組に斬殺・逮捕される事件が起こり、幕末の動乱は加速していきます。
亡くなったのは、1897年5月10日です。1894年(明治27年)から翌年まで続く日清戦争で日本は勝利します。そして、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)まで日露戦争が行われます。このように明治期にかけて激動の時代でした。
さて、フィリピン史におけるフィリピン革命史観は、当初アメリカの研究者により「ホセ・リサール」や「エミリオ・アギナルド」など上流・知識階層による革命が強調されたのに対し、のちにフィリピン人研究者により「アンドレス・ボニファシオ」などを指導者とする一般民衆による革命が論じられてきました。近年では、単純な二階層によるものだけではなく、社会の中間層に着目しつつ多角的な観点での研究も進められているそうです。
では以下は簡単なボニファシオの生涯とフィリピン独立革命の概要です。
背景 斜陽の帝国スペイン
1789年に「フランス革命」が勃発し、ヨーロッパ全体が動乱の時代となりスペインも巻き込まれた。1793年にスペインは、フランス共和国との戦争(フランス革命戦争)に参戦するが、敗れて講和条約を結ぶ。すると今度は1805年にフランスと手を結びイギリス、ポルトガルと戦うがトラファルガーの海戦で惨敗し、スペイン海軍は壊滅してしまう。
スペインの経済は崩壊状態となり、1805年には各地で大規模な暴動が起こる。この機に、政府内の改革派がフランス皇帝ナポレオンの助けを得て、国王カルロス4世を退位させ、その息子がフェルナンド7世として即位する。しかしナポレオンはフェルナンド7世の退位を強要し、ナポレオンの兄のジョゼフをホセ1世としてスペイン国王に即位させてしまう。
事実上のナポレオンによる支配に対し各地で反乱がおこり、ゲリラを支援するイギリス軍が1808年8月に上陸し、ポルトガルとともにフランス軍との間で7年近く続くスペイン独立戦争(半島戦争)が勃発しスペイン全土は戦場となった。
そのフランスはナポレオンのロシア遠征の破滅的な失敗により、1814年にスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した。しかし彼は絶対主義への復古・反動政策をとったため、1820年に自由主義を求めるスペイン人の支持を受けたラファエル・デル・リエゴ将軍らによる「スペイン立憲革命」が達成され、フェルナンド7世は幽閉される。
しかし、その後フランス軍が介入して革命派の軍を破ると、フェルナンド7世は釈放され、権力の座に戻るやいなや報復に取り掛かかり、リエゴ将軍ら革命派を次々と処刑し、恐怖政治が3年間続くことになる。
このようにスペインの混乱と弱体化が進む中、植民地においては、1825年に「シモン・ボリバル」をはじめとする「リベルタドーレス(解放者たち)」の活躍によって南米最後の植民地ボリビアが独立し、スペインはキューバとプエルトリコ以外のアメリカ大陸の植民地を失ってしまう。
このような状況により、フィリピンには植民地での荒稼ぎを求める不心得な官吏などの縁故人事が横行しフィリピン統治機構はますます腐敗と混乱を起こしていった。そして、およそ3世紀にわたって続いた植民地支配に対し独立運動の機運がたかまっていく。
フィリピンの独立運動
マニラ正式開港(1834年)
マニラ港が正式に開港し、以降、米英との貿易拡大が進み、フィリピン人間に自由主義思想が流入するとともに有産階級も成長していった。これらの有産知識階層(イルストラード)が、まずフィリピン独立運動の大きな原動力となっていく。
アンドレス・ボニファシオ誕生(1863年11月30日)
アンドレス・ボニファシオは、マニラのトンド(Tondo)の小さな小屋で生まれた。(トンド地区は貧困街だが、父は仕立て屋(tailor)で、母は主婦でタバコ工場で働いていた。)アンドレスは5人きょうだい(または6人という資料もある)の長男であったが、幼少期については不明な点も多い。
カビテ暴動とゴンブルサ事件(1872年1月20日) 軍港カビテで労働者による暴動「カビテ暴動」が勃発し、同年、フィリピン人神父の昇進差別を訴えた教会改革運動で「ホセ・ブルゴス神父ら3人のフィリピン人神父がこの暴動を扇動した」との嫌疑をかけられて処刑される「ゴンブルサ事件」が起こった。当時ボニファシオがまだ8歳のころだった。
ボニファシオの少年期(1877年)
1877年、ボニファシオが14歳の時に両親が亡くなって孤児となり、親代わりとして弟妹たちを育てることになる。家族を支えるために、彼は工芸品を作り、紙の扇子や竹の杖などを販売して生計をたてていた。 また、1896年まで倉庫番などの仕事をしていたが、その倉庫で本を読み、スペイン語の知識を向上させていたという。
「プロパガンダ運動(啓蒙改革運動)」(1882年)
1882年、「民族主義的知識人(イルストラド:illustrado)は、スペインに対してフィリピン人の政治参加を求める「プロパガンダ運動」を展開していった。マルセロ・ヒラリオ・デル・ピラールは最初のタガログ語日刊紙『タガログ新聞』(スペイン語とタガログ語の併用紙)を創刊して修道会による地方政治支配を批判した。
同年、ホセ・リサールはスペインへ出発。マドリッド中央大学へ入学する。
ホセ・リサール『ノリ・メ・タンヘレ(我に触るな)』発表(1887年)
ホセ・リサールがスペインで発表した長編小説『ノリ・メ・タンヘレ』(我に触るな,1887)は植民地支配下のフィリピンにおける諸問題を厳しく告発するものであり、民族運動に影響を与えた。このときボニファシオは24歳であり、この本から大きな影響を受けたとされている。
スペイン・バルセロナで「団結」創刊(1889年2月15日)
スペイン・バルセロナで運動の機関誌として創刊された『団結』(La Solidaridad)は、のちにデル・ピラールによって編集されるようになった。ただ、この段階での民族運動の主流は、植民地支配の腐敗の打破を訴えるものではあったが、(独立を目指すものではなく)穏健な啓蒙的改革運動であった。
ボニファシオ二度目の結婚(1892年)
ボニファシオは二度目の結婚をする。最初の妻はハンセン病で亡くなっていて子供はいなかった。
ホセ・リサールによる「フィリピン民族同盟」の結成(1892年6月)
1892年6月にフィリピンに帰国したホセ・リサールらは、翌7月にフィリピン人としての民族思想の実践をめざし「フィリピン民族同盟(ラ・リガ・フィリピナ:La Liga Filipina)」を結成する。この同盟にボニファシオも参加する。
ホセ・リサールの逮捕と流刑(1892年7月6日)
宗主国スペインの当局は「フィリピン民族同盟」を脅威と受け止め、同組織が創立されたわずか4日後の1892年7月6日の夜、リサールは逮捕された。翌日、リサールはミンダナオ島のダピタンへ流刑となる。
「カティプナン」の結成(1892年)
リサールの逮捕後、「フィリピン民族同盟」活動を停止し解体し、かわりにメンバーの一員デオダート・アレジャノ(Deodato Arellano)、ロマン・バサ(Román Basa)、アンドレス・ボニファシオ(当時29歳)らによって秘密結社「カティプナン(タガログ語:Katipunan)」が結成された。(組織の結成にあたってはフリーメーソンに倣った血盟による入会儀式を行うなど、その影響を受けている)
フィリピン独立革命(1896年8月30日)
「カティプナン」は、「ラ・リガ・フィリピナ」と異なり、武力闘争路線のもとで、1896年8月末にフィリピン独立闘争(フィリピン独立革命)を開始した。これを受けて、スペイン総督はルソン八州を戒厳令下に置く。
このボニファシオをリーダとした反乱は、およそ3世紀に及ぶスペインの植民地政策に対するフィリピン革命の始まりとされており、この日を記念したのが以前紹介した「ナショナルヒーローズデー」で毎年8月末が祝日とされている。
カティプナンの分裂
独立闘争の中、やがて「カティプナン」は二つのグループに分裂し、対立していく。1つはボニファシオに近いアルバレス将軍率いるマグディワン派であり、もう1つはエミリオ・アギナルドの兄弟バルトロメオ率いるマグダロ派である。
ホセ・リサールの処刑(1896年12月30日)
リサールは 1892 年から 4 年ほどの幽閉生活ののち、みずから志願して 1896 年 7 月にスペインの従軍医としてキューバに向かった。しかし、マニラで「カティプナン」が武装蜂起したことによって、リサールは革命扇動者の容疑を受けてマニラにつれ戻され、1896年12月30 日に処刑された。(12月30日はリサール記念日(Rizal Day)で祝日となっている)
スペインの反撃
この頃スペイン軍は本国からの援軍を得て猛反撃を展開し始め、革命軍は各地で苦戦を強いられていった。
テヘロス会議(1897年3月22日)
「カティプナン」の分裂やスペインの反撃といった状況を打開するためカヴィテ州ヘネラルトリアスで会議が行われた。この会議は下記のような内容であった。
ボニファシオとアギナルドの主導権争い
「カティプナン」の指導者を決める選挙が行われ、マグダロ派のエミリオ・アギナルドが146票、アンドレス・ボニファシオが80票、マグダロ派のマリアノ・トリアスが30票で、エミリオ・アギナルドは大統領、マリアノ・トリアスが副大統領、アンドレス・ボニファシオが内務省長官と定められた。
ボニファシオの離反
ボニファシオはカティプナンの最高司令官であったため、選挙の議長を務めていた。ボニファシオの部下セベリノ・デ・ラスアラスは選挙に破れたボニファシオを副大統領とするよう画策したが、マグダロ派でのダニエル・チロンナが「ボニファシオのような弁護士資格のない人間が副大統領の地位に就くべきではない」と反対した。このことが侮辱であるとボニファシオは発言の撤回を求めるなどした際にいさかいが起こり、ボニファシオは組織を離反した。
フィリピン革命軍の設立
会議において、アルテミオ・リカルテ将軍の提案により、「カティプナン」は「フィリピン革命軍」に置き換えられた。
ボニファシオ処刑(1897年5月10日)
その後、「カティプナン」を離れたボニファシオは「カティプナン」の指導権を掌握したアギナルド将軍の指示で逮捕され、1897年5月10日にアギナルド勢力によって処刑された。
その後のフィリピン
翌1898年4月に米西戦争が勃発し、これによりスペイン打倒の展望が見え始め、それまで無関心を装っていた中間階級(ミドルクラス)が闘争に積極的に参加する。アギナルドを中心とした革命軍は1898 年6月に独立宣言をおこなった。
アギナルドはアメリカ合衆国がフィリピン独立運動を支持してくれると信じていたが、パリ講和会議でフィリピンはスペインからアメリカへ2,000万ドルで譲渡されていたのである。アメリカは1898年8月にマニラを独力で無血開城し、フィリピン全域を軍政下に置く動きを開始した。
1899年1月21日、ブラカン州マロロス市でフィリピンで初めての独立国家として「マロロス共和国(フィリピン第一共和国)」が公式に設立された。大統領にはエミリオ・アギナルドが選出され、1月23日には大統領就任式を行った。一方で、前年に米西戦争の過程でマニラを占領していたアメリカ軍は、共和国派(独立派)がマニラ占領に参加することを許さず、両者が対峙する二重権力状態が続いた。
1899年1月にマロロス共和国の革命政府軍とアメリカ軍が同年2 月に激突し、米比戦争が起こった。この状況で中間階級層はアメリカとの和平に向かい、闘いの主導権は民衆に委ねられた。以後、軍事的に圧倒的優位を誇るアメリカ軍がフィリピン各地をつぎつぎと制圧し、1902年7月に平定作戦完了を宣言し、アメリカによる統治体制の確立への動きが加速することになった。
ボニファシオの功績
フィリピン国家歴史委員会「Republic of the Philippines National Historical Commision of Philippines」のホームページ「 Andres Bonifacio and the Katipunan」ではボニファシオの生涯について下記のように締められています。
On 10 May 1897, Procopio and Andres were shot at Mount Nagpatong, near Mount Buntis in Maragondon, Cavite. This event ended the short life of the Supremo. His educational attainment and military expertise may not have been equal to that of other heroes but his love for the country was absolute. His name will always be revered and serve as the battle cry of Filipinos who yearn for freedom oppression and injustice.
1897年5月10日、プロコピオとアンドレスはカビテ州マラゴンドンのブンティス山近くのナグパトン山で銃撃された。この出来事により、スプレモ(最高指導者:Supreme Leader/President)の短い生涯は幕を閉じた。 彼の教育的達成度と軍事的専門知識は、他の英雄には及ばなかったかもしれないが、彼の国への愛は絶対的なものであった。 彼の名前は常に崇(あが)められ、自由な抑圧と不正を求めるフィリピン人の鬨(とき)の声となるだろう。(www.DeepL.com/Translator(無料版)による翻訳)
このようにボニファシオは志半ば、33歳という若さで亡くなります。しかし、彼らのフィリピン独立に向けた抵抗が、後の独立へつながっていったことは確かです。
(以上「ウキペディア」、「世界史の窓」及び下記資料を参考にしています。なお、下記資料については別の機会に詳しく紹介したいと思います。)
「グローバル化時代のフィリピン革命史研究―近年の欧米研究者たちの動向―」 永野 善子
「フィリピン革命のリーダーシップに関する研究(1896年8月~1898年4月) 池端 雪浦」
「フィリピン政治分析における個人」 (J-Stage :高木佑輔)
おわりに
ボニファシオの死から24年後、共和国法2946号が制定され、ボニファシオの生誕記念日を記念して、毎年11月30日を国民の祝日とすることを決定しました。
フィリピン政府広報ニュースPH to celebrate 156th birth anniversary of Andres Bonifacio(2019/11/20)には「一方、労働者は、土曜日に当たる定休日であるボニファシオの日には、通常の日給の2倍の賃金が支払われるとされている。」という記事があります。
日給の2倍?と思って調べると、雇用主には「労働者が祝日に就労しなかった場合は日給の100%、就労した場合には日給の200%」の支給義務があるのだそうです。(労働者10名未満の小売業及びサービス業などを除く)
(「知っておこうフィリピン法 第32回 フィリピンにおける使用者の金銭上の義務」黒田法律事務所から)
日本の場合、法定休日の指定の仕方や代休のとり方などいろいろなパターンがあって難しいのですが、例えば「法定休日における労働(休日労働)に対しては、基礎賃金の『35パーセント増し』以上の割増賃金(いわゆる休日手当)を支払わなければならないとされています」とあります。
(「未払い休日割増賃金の請求」未払い賃金残業代請求ネットワークから)←リンク切れ
この差は休日・祝日にはなるべく働きたくないという抵抗感の違いからきているのでしょうか。
また、これまで(この時期になると)何度かお話してきましたが、フィリピンでは給与支給に関して次のような決まりがあります。「給与は最低2週間に1回、または1ヵ月に2回、16日を越えない間隔で支払う。」「13ヵ月給与として、1カ月分の給与を法定賞与として支払う。」(「『現地人の雇用』詳細」ジェトロから)
「給料支給日」や「13ヶ月給与の具体的な支給方法」は定められておらず、雇用主に任せられています。
「ボニファシオの日」は「独立革命」という少し重い背景はありますが、庶民にとっては、もうすぐクリスマス月(ボーナスや12か月給与がもらえる)の明るい希望にみち日ともいえるかもしれません。
ただ、今年はコロナの影響でどうなのでしょう。すこし心配です。
うちの事業は、これまでもお話したとおりタクシードライバーは従業員ではないので給料はありません。普段ですと、12月に「セービング」というドライバーの積立金の返金と「リワード」というボーナスにあたるものを支給したり、バウンダリー無しの日を設けたりします。
こちら(オペレーター)も3月中旬から8月にGCQになるまでおよそ4ヶ月間無収入で、それ以降のバウンダリー(ドライバーが支払う料金)の減額が今も続いているので、けっこう厳しい状況です。
それでもやはりこのシーズンは特別ですから、何か考えなくては。
もうすぐクリスマスに新年と、そわそわ、わさわさする時期がやってきます。例年とは少し異なるかもしれませんが、気持ちだけは明るく持っていきたいものです。