「セブでつぶやき」をテーマとして、時々、短いお話をしてきましたが、今後は最近のニュースをとりあげ、【フィリピン・セブでつぶやき・最近のニュースから】として、頻度を上げて投稿していきたいと思っています。
マルコス元大統領の息子が立候補へ、来年のフィリピン大統領選
今回は、このニュースです。
マルコス元大統領による独裁政権のもと、1983年8月21日に亡命先のアメリカから帰国したベニグノ・アキノ氏がマニラ国際空港に到着し、階段を降りた直後に射殺された事件は、日本のテレビでも連日放送されました。
また1986年2月22日のフィリピン軍改革派将校のクーデター決起から、25日のアキノ政権樹立に至るまでのエドゥサ革命(ピープルパワー革命)の様子もまた連日報道され、私もその映像を覚えています。
(当時のニュース映像)フィリピンで民衆革命 マルコス政権崩壊(NHKアーカイブス)
そして、歴史は流れ、故マルコス元大統領の息子であるボンボン・マルコスが2022年の大統領選挙への立候補を表明しました。
「マルコス元大統領の息子が立候補へ、来年のフィリピン大統領選」(ロイター 2021/10/05)
- フィリピンのマルコス元大統領の息子のフェルディナンド・マルコス・ジュニア氏(ボンボン・マルコス)が5日、来年の大統領選に立候補すると表明した。
- ジュニア氏は地方首長、上院議員を歴任、2016年の副大統領選挙では敗北した。姉のアイミー・マルコス氏は上院議員。
- 大統領選挙立候補者はジュニア氏が4人目。すでにボクシング界の国民的英雄で上院議員でもあるマニー・パッキャオ氏、マニラ市長のフランシスコ・ドマゴソ氏、警察のトップを務めたパンフィロ・ラクソン上院議員が出馬申請を済ませ、名乗りを上げている。
「比大統領選、故マルコス氏長男が出馬 世論調査支持2位」(日本経済新聞 2021/10/05)
- 同氏のFBのフォロワー数は304万人おり、SNS(交流サイト)を活用して選挙戦に臨む見通しだ。
- 比調査会社パルスアジアが9月に実施した次期大統領選の世論調査で、マルコス氏の支持率は15%で2位だった。
- マルコス氏の父親は同国で約20年の長期独裁政権を敷いた。その後86年に故コラソン・アキノ元大統領が独裁政権を倒し民主化を進めた歴史がある。
- マルコス氏は自身の強みについて「上院と下院で議員を経験し、あらゆる政府系組織に精通している」と実績をアピールする。
- 旧マルコス独裁政権に反対する団体からは、出馬が取り沙汰された段階から「出馬はマルコス家が復権し戒厳令での支配へと戻そうとするおかしな試みだ」との批判が出ていた。
フェルディナンド・マルコス・ジュニア(ボンボン・マルコス)(Ferdinand “Bongbong” Romualdez Marcos Jr.)とは
以下ウィキペデア日本語版及び英語版より
フェルディナンド・マルコス・ジュニア または ボンボン・マルコス (Ferdinand “Bongbong” Romualdez Marcos Jr. , 1957年9月23日 – )は、フィリピンの政治家。フィリピン共和国大統領だったフェルディナンド・マルコスの息子である。当地ではボンボンというニックネームで知られている。
来歴
- 1957年、マニラ首都圏マニラ市でフェルディナンド・マルコスとイメルダ・マルコスの長男として生まれる。
- 1966年7月、いわゆるビートルズ事件が起き、マルコス家の一員として、メディア取材の対象となる
- 1970年、イギリスのベネディクト大学へ進学、その後、オックスフォードのセントエドモンドホールに入学するが、中退した(と思われる)。
- 米国ペンシルベニア大学ウォートンスクールオブビジネスの経営学修士プログラムに登録したが、イロコスノルテの副知事選出馬のため中退
- 1980年、23歳のボンボンマルコスはイロコスノルテの副知事に就任
- 1983年にイロコスノルテ州知事に就任(1983–1986)
- 1986年のエドゥサ革命でフィリピンを離れてアメリカ合衆国ハワイ州に亡命して移住生活をした。
- 1989年、マルコス元大統領は、亡命先のハワイ・ホノルルでイメルダ夫人やボンボンマルコスらに看とられながら9月28日に病没した。
- 1992年、マルコスはイロコスノルテの第2地区の代表として、フィリピン代議院に選出(1992–1995)。
- 1998年に再びイロコスノルテ州知事に選出される。(1998年6月30日- 2007年6月30日 3期)
- 2007年6月30日- 2010年6月30日イロコスノルテの第2地区の代表として、代議院に選出
- 2010年に上院議員に当選
- 2016年副大統領候補として出馬したが、対立候補のレニー・ロブレドに263,473票の差、0.64%の僅差で敗れた。(不正があったと裁判を起こすが認められず)
2016年副大統領選へ出馬
2016年副大統領選挙出馬時の記事(記述内容は、記事作成当時のもの)
「エドサ革命とボンボン・マルコス」(HUFFPOST 2016/02/24 2017/02/24更新)
- 「独裁者の息子」を推す勢力からは「マルコス時代は良かった。秩序があり、インフラ整備も進んでいた」という声が盛んに聞こえてくる。
- エドゥサ革命後、95年にはイメルダが下院議員に当選して一家は政界に復帰した。イメルダはいまも下院議員、アイミーは北イロコスの知事だ。
- 大統領候補たちのマルコス家へのすり寄りはサンチャゴやポーに限らない。ダバオ市長ドゥテルテは「過去の大統領でマルコスが一番だった」「私が大統領になったらフェルディナンドの英雄墓地への埋葬を認める」などと発言している。北イロコス州に安置されているフェルディナンドの遺体を英雄墓地に埋葬することはイメルダの夢だが、これまでは政府が許可していない。
- (フィリピン国民は)単に忘れっぽいのか、マルコス時代を再評価しているのか。はたまた86年の「革命」後の歴代政権の変わらぬ汚職、非効率体質への失望が過去の美化につながっているのか。
マルコス家への批判
フィリピンでは反マルコス政権が長く続いていたにもかかわらず、マルコス家の財産が没収されることもなく、イメルダ夫人を始め息子、娘ともに政界に復帰できたのは、どんな事情(裏)があるのか、それともフィリピンらしさなのか、興味があるところです。
「罪は消えない マルコス資産返還」(まにら新聞 2017/09/03)(31日・スター)
- マルコス家の資産には、ピカソやゴーギャン、モネの作品も含まれているという。しかし2003年に政府は、その資産額をたったの30万4千ドルと算出した。
- 我々国民が望んでいるのは、マルコス家が30万4千ドルやいくらかの金塊を差し出す代わりに、彼らが残りの莫大な資産を所有し続けることではない。それではまるで、橋を2カ所建設する援助を行う代わりに、中国政府に南シナ海の海域や島の所有を認めるようなものである。
- ドゥテルテ大統領はこのほど、マルコス家が全てをつまびらかにし、富を返還することに同意したと発表した。つまりマルコス家は富が不正に蓄積されたものだと認めたわけだが、その一方で、マルコス家は何か見返りを得ているのではないかとの疑問から目をそらすことはできない。
- 現在、マルコス家の資産は、スイスに所有する口座も合わせて100億ドルに上るという。
なぜ復権の動きがあるのか
ドゥテルテ大統領は就任前からマルコス家復権に協力的で、大統領就任後に、それまでの政府が許さなかった『マルコス元大統領の「英雄墓地」への埋葬』を許可しました。
こうした大統領の後押しといった状況を背景とし、マルコス家の復権は進んでいます。
「ドゥテルテ氏またお騒がせ 人権弾圧のマルコス元大統領を「英雄」墓地に 「歴史を浄化するな!」と数千人デモ」 (産経新聞 2016/09/23)
- 故マルコス元大統領の遺体について、ドゥテルテ大統領が「英雄」として埋葬することを決め、波紋を広げている。
- 「歴史を浄化するな」。マニラ首都圏の教育省前などで数千人の学生らがデモ行進し、マルコス氏の英雄墓地への埋葬に反対する声を上げた。
- 故マルコス氏の遺体は故郷の北イロコス州の博物館の廟で冷凍保存され公開されている。イメルダ夫人(87)らが大統領経験者や戦没者が眠るマニラ首都圏の英雄墓地への埋葬を訴え続けてきたが、父親がマルコス政権下で暗殺されたアキノ前大統領らが反対してきた。
- 独裁時代を知らない若い世代が台頭し、「開発独裁」とも呼ばれたマルコス政権を「黄金時代」と再評価する動きも出てきた。5月の副大統領選で父親の功績を訴えた長男フェルディナンド・マルコス氏(59)は、僅差で敗北する人気ぶりだった。
- マルコス家とも親しいドゥテルテ氏は6月に大統領に就任するとともに、「国民の和解」を理由に英雄墓地への埋葬を決定した。
「フィリピン最高裁、マルコス元大統領の英雄墓地埋葬を認める」(AFP 2016/11/08)
- フィリピンの最高裁は8日、独裁政権を率いた故フェルディナンド・マルコス元大統領の英雄墓地への埋葬について、認める判断を示した。こうした判断はマルコス元大統領が犯した罪を覆い隠し、国を分断するとして、大きな議論を巻き起こしている。
「90歳イメルダ夫人の誕生会に2500人 「マルコス王朝」復権の兆し」(産経新聞 2019/07/18)
- マルコス元大統領の妻、イメルダ・マルコス氏の誕生パーティーが開かれ、出席者が食中毒となるハプニングがあった。図らずも注目されることになったのは90歳になったイメルダ氏の集客力だ。実に2,500人が詰めかけ、誕生日を祝っていた。
- 不正蓄財で批判を浴びたマルコス元大統領だが、一族の存在感は健在。子供や孫も着実に政界に進出しており、栄華を誇った「マルコス王朝」は復活しつつある。
- マルコス家は、ドゥテルテ大統領とも実は近い。ドゥテルテ氏の父はマルコス政権で一時期閣僚を務めた経験があり、16年の大統領選ではアイミー氏がドゥテルテ氏を支援した。
- ドゥテルテ氏はマルコス氏の遺体をマニラ郊外の英雄墓地に移送・埋葬することを認め、16年11月に実現。これ以降、両者の結びつきはさらに強まったとされる。ドゥテルテ氏自身も「マルコス家との関係を断ち切ることはできない」と発言したことがある。
自由を成立させることは難しい
私の世代ですと、最初にお話したように、フィリピンは独裁政権から革命によって民衆が自由を勝ち取ったというイメージが強く、その独裁者の息子が、その時代に蓄えた膨大な財産を得たまま、大統領選挙に立候補するということに大勢の人が賛同しているということは、一見、不思議に思えます。
しかし、私がフィリピンに来た頃は、フィリピンは政治、役所・警察は汚職にまみれ腐敗し、社会は銃と麻薬まみれでした。(わずかの期間ですが、ドゥテルテ政権になってからの変化は実感できます)
せっかく、独裁政権から開放されたというのに、30年経っても、決して庶民の生活はよくなっていなかったという事実が、「むしろマルコスの時代は良かった」といった回顧となるのかもしれません。
(それゆえに、独裁的リーダーシップをとり、一部から強権的という指摘もあるドゥテルテ大統領が、これほどに多くのフィリピン人に受け入れられているのでしょう)
最近だと、アフガニスタン
が思い出されます。せっかくタリバンから開放され、みずから民主主義国家を作り上げるチャンスが有りながら、結局はリーダーたちが私利私欲に走ったとされ、タリバンの返り咲きを許してしまいました。
ボンボンマルコスのケースはとても難しいです。彼が大統領になることで、オセロの白と黒がひっくり返るように、歴史修正が行われてしまうのではないかという怖さはあります。歴史は、やはり本来は、政治やイデオロギー的なものからは一歩引いた所にあるべきです。
(もっとも、現実に歴史は勝者によって書かれるであったり、政治や外交の駆け引きに使われることは常ですが)
私は、まだまだ、フィリピンの歴史についての知識も浅く、勉強が必要ですし、ボンボンマルコスの、マルコス政権時代の歴史観も知りたいとも思います。
そして、前回の大統領選挙の時はフィリピンの状況もよくわからず、ほとんど無関心でしたが、今回は選挙までウォッチしていきたいと思っています。
フィリピンが、『民主主義を守りながら、腐敗を無くす』いい方向に向かってほしい、それを実現する大統領が選ばれることを節に願います。