はじめに
こちらも新しいカテゴリーです。
以前このような投稿をしました。概要は下記のとおりです。
- 欧米諸国は、文化や思想などあらゆる面で、キリスト教の影響を大きく受けています。その経典である聖書は、世界では圧倒的なベストセラーです。
- 欧米社会を深く理解するには、キリスト教を背景とする知識が必要なのではないかと思います。
- 身近なところでも、例えば、私の好きな映画の「ショーシャンクの空に」の原題は「The Shawshank Redemption」といいます。Redemptionという言葉は経済で償還という意味のほかに、「キリスト教の神学用語では、キリスト教徒の、罪からの解放を指す。」言葉とのこと。映画の中でも聖句がセリフの中に出てきたり聖書が重要なアイテムとして使われてました。
- フィリピンはスペイン統治の影響もあり、アジアで唯一のキリスト教の国です。8割がカトリック信者、その他にキリスト教の他宗派、イスラム教徒も街中で目にします。
- 私の妻も家族もみなキリスト教徒(カトリック)です。フィリピンに永住し、今後長い付き合いをしていく決意をしたこともあり、信仰するしないという問題は置いておいて、聖書を一度くらいは通読し、キリスト教の知識を身に着けておくのもいいのではないかと考えました。
- 文化の違いに戸惑う際や、出会った人と親しい交流を持つにあたって、相互理解を深めるために役に立つかもしれません。
私はもともと信仰というものに関心があり(宗教というようり信仰です)、若い頃は夏季休暇を利用して、バイクで四国お遍路などをしたこともあります。今もクリスチャンではありませんが、生涯、のんびりと、キリスト教や仏教などを学んできたいと思っています。
そして、実は、ブログとしてはキリスト教に関する知識や理解を深めるためのカテゴリー『セブで聖書を読んでみる』を投稿する予定なのですが、こちらも並行して行いたいと思います。
『セブで聖書を読んでみる』のカテゴリーでは『一神教と多神教』『ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の違い』『カトリックとプロテスタントの違い』や教義などについてお話していきたいと思います。
まだまだ、聖書通読も新約聖書のみという状況ですので、勉強しながら、という感じになります。一緒に聖書を学ぶという感じでお付き合いいただけたら幸いです。
また、本文は全く聖書になじみがないと、よくわからない部分もあるかと思いますが、そこは流していただいて構わないと思います。
聖書を読んでいくと、様々な疑問も生じます。そこで考え込んでしまうと、1センチも前には進めません。とりあえず進んでみているうちに、振り返ると「そういうことか」と分かる場合もあります。
中国の古典も歴史があって素晴らしいですが、聖書は2,000年以上の間、今に至るまで多くの人の信仰を保ち続けているアメイジングな書物です。
せっかくフィリピンに住むことになったのですから、それに触れてみるのも何かの縁(『ご縁』は「Our meeting was linked by fate!」と訳されることがあります。これは「私たちの出会いは(神に定められた)運命によって結ばれていた」というような意味。(※))かもしれません。
(※)「ご縁」という日本語に込められた深い意味(東洋経済 2016/08/29 )
注)なお、聖書はいくつもの翻訳があり、1955年に日本聖書協会の翻訳により発行された口語訳聖書は、著作権のないパブリックドメインとなっています。他に、同じく日本聖書協会による1978年の共同訳、1987年の新共同訳(1987年)、2018年の聖書協会共同訳があり、プロテスタント系でありながらカトリックと共同翻訳されています。
一方、日本聖書刊行会の新改訳はプロテスタントの福音派の福音主義の立場に立ちます。1965年に新約聖書、1970年に旧約聖書が完成、2017年に第4版にあたる新改訳2017が発行されています。
福音派教会はユーチューブ動画の配信なども多く、この聖書から引用するケースも多く、当ブログでも、口語訳を基本として、その補完として引用させていただくことがあります。
どちらも原語(旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシア語)からの直接翻訳です。
今日の聖句
『伝道の書』5章12節で、全文は以下の通りです。
「働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。」(口語訳:伝道の書5:12)
新改訳では「働くものは少し食べても多く食べても心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」(新改訳:伝道者の書)
まず、この『伝道の書』について
伝道の書とは
(以下、ウィキペディアより)
「伝道の書」は『コヘレトの言葉』とも呼ばれ、旧約聖書の一文献で、『雅歌』、『哀歌』、『ルツ記』、『エステル記』と合わせ、ハメシュ・メギロット(五つの巻物)という書物。
「コヘレト」は、七十人訳聖書(旧約聖書のギリシア語訳聖書)で「エクレシアステース」(ギリシア語: Ἐκκλησιαστής, Ekklēsiastēs; 「集会で語る者」の意)と訳されて以来、「伝道者」「説教者」という意味の普通名詞として解釈されてきたが、近年では、ほとんどの研究者が(コヘレトという)固有名詞ないし筆名として解釈している。このため、新共同訳では、「コヘレト」を固有名詞とする解釈に基づき、『コヘレトの言葉』という訳題が採用された。聖書協会共同訳もこれを踏襲している。
著者は『雅歌』、『箴言』とともに紀元前10世紀代のソロモンとする説が広く受け入れられているが、近代における研究では、ソロモンから数百年後代の紀元前4世紀から同3世紀にかけての第二神殿時代(さらに後期)に書かれたと推定されている。(ペルシア語由来の単語が記されているなどの理由)
『コヘレトの言葉』は知恵文学に属しており、コヘレトを介して、宗教、民族を超えた普遍的な疑問(人生の空しさ、諸行無常、「国破れて山河有り」といった国や社会について)の哲学的考察が試みられている。同書において提示される世界観は、旧約聖書の中で異色である。そのため、キリスト教やユダヤ教を信仰していない異教徒や無宗教者、さらに不可知論者などにも、大きな違和感を与えることが少なく、比較的馴染みやすい。
つぶやき
この節は12節ですが、10節の「 金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。」
11節の「財産が増せば、これを食う者も増す。その持ち主は目にそれを見るだけで、なんの益があるか。」に続く節です。
そして、13節以降「わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。」、
「またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである。それで、その人が子をもうけても、彼の手には何も残らない。」
「彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。」
「人は全くその来たように、また去って行かなければならない。これもまた悲しむべき悪である。風のために労する者になんの益があるか。」
「人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある。」と続きます。
新約聖書では、『富(お金)より信仰が大事である』ということがイエス・キリストのエピソードなどでも語られますが、古代イスラエルでも聖書によって、富の害悪が諭されているのは、現代の倫理にも通じるところです。
一方、そのユダヤ人が歴史の中で、中世ヨーロッパ社会で忌避された金融業で、卓越した才覚を活かし、財と力を得ていったというのは、ちょっと不思議な話です。
『金銭に執着すべきでない』といのは仏教の教えにもあります。『財産はお墓(天国、あの世)に持っていけない』(三途の川の渡し賃の六文銭だけ必要?)というのも、世俗の格言としてもよく言われます。
さて、私自身について考えると、時々、あのまま公務員生活を続けられて、定年まで勤め上げていれば、どんな人生になっていただろうと思うことがあります。
おそらく、金銭的には不自由なく老後を暮らすことができたかもしれません(『飽き足りるほどの金持ち』とまではいきませんが)。でも、今のような家族を持つことはできなかったかもしれません。
また、あの時、辞めなければ、多分心身の健康を損ねて、結局は辞めていたかもしれないな、と思うこともあります。
ただ、一方では、やはり『お金は(ないより)あったほうがよい』ということを身にしみて感じます。フィリピンでは特に医療で、日本だったら誰でも治療を受け助かる病気でも命を失うことが多くあります。
以前、フィリピン人の友達から「自分の友人がガンで治療費が足りず、車を買ってくれる人を探しているのだけれど、買う気がないか?(暗に買ってほしい)」と言われたことがあります。
自分自身でも、公務員時代は大抵は買えたものでも、今はそうはいきませんし、旅行でも食事でも、今の生活と比べると贅沢していたなあと思います。
お金に不自由する生活になって、しみじみお金の大切さを感じ、一方では、お金では買えない大事なものも知ることができました。
「足るを知る者は富む」(満足することを知っている者は、たとえ貧しくとも精神的には豊かで、幸福であるということ)は、老子が記した、仏教の教えを説いた言葉だそうですが、お金はあったらあったで(もっと欲しくなるなど)苦労するもので際限はないでしょう。
まあ、一度しかない人生で、『眠れなくなるほどの大金持ちを経験してみたい』という気もしますが・・・
地道に働き(今はカミさんに任せてあまり汗を流していませんが)、ぐっすり眠れて、欲望のリミッターを抑えて、穏やかに、今に満足できる生活を送りたいものです。