今日は4月1日(金)、日本では新年度、新学期が始まります。
日本で仕事をしていたころを思い出すと、職場のメンバーが異動で変わり心機一転、また自分自身が異動した場合は初日で少し緊張した一日となります。
そして、今月は「イースター」があります。
日本では「クリスマス」「バレンタインデー」「ハロウィン」といった西洋の慣習が商戦に取り入れられてきました。最近は「イースター」も加えようとしているようですが、あまり浸透していないようです。
フィリピンは国民の8割以上がトリック教徒のキリスト教国ですが、「イースター」は『イエスキリストが十字架に張り付けにされて処刑された後に復活したとされる日(復活の主日)』を祝うもので、その前日からの1週間を「聖週間(ホーリーウィーク)」と呼びます。
この1週間は『イエスのエルサレム入城』に始まり、レオナルド・ダ・ビンチの絵画でも知られるイエスが弟子たちと処刑前日に食事をともにする『最後の晩餐』(聖木曜日)、『処刑された日』(聖金曜日)、『イエスが復活した日』(復活の主日)などの聖書の記述をなぞった宗教行事なども行われます。
今年は4月10日(日)から4月16日(土)までが『聖週間』で、17日(日)が『復活の主日』です。(なお、東方教会(ギリシア正教会など)と西方教会とでは教会暦が異なることから、日付は年によって同日であることもあれば異なる日にちである場合もあります)
14日の木曜日と15日の金曜日の祝日はモールも閉まりますのでご注意ください。アヤラモール(セブ)はフェイスブックですでにアナウンスされています。SMモール(セブ)も休業は同じだと思いますが、アップされたら情報を追加します。
2018年4月1日(2022年4月1日更新)
枝の主日(Palm Sunday)4月10日(日)
「枝の主日」は、イエス・キリストがロバに跨りエルサレムに入城した日を記念するキリスト教の祭日で、復活祭の一週間前の日曜日にあたり、聖週間の初日となります。
「枝の主日」の名称はカトリック教会・ルーテル教会での呼び名で教派によって異なります。正教会では「聖枝祭」(花の主日:Palm Sunday)、プロテスタントでの「棕櫚の主日」に相当します。
Palmは「手のひら」の他に「ヤシ、シュロの木」という意味があります。
聖書では
「12その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、13しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。14イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは15『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる』と書いてあるとおりであった。16弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。」(ヨハネの福音書12:12~16(口語訳))
とあります。
聖書に『大勢の群衆がしゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。』とあることから、枝(枝の種類は各国、地域によって異なる)が「祝別」(カトリック教会で、神への奉仕にあてるために人または物を区別して聖とすること。また、その祈り・儀式。一時的区別であることが聖別と異なる。)として用いられています。
フィリピンではこの枝のことをタガログ語でパラスパス (Palaspas)と呼び、この時期、街中ではヤシの葉を編んで作った枝の売り子や持っている人を多く見かけます。
聖木曜日(Maundy Thursday) 4月14日(木)
木曜日は「聖木曜日」と言われ、イエス・キリストと使徒たちの「最後の晩餐」を記念する日です。
聖書では「15イエスは彼らに言われた、『わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。16あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない』。17そして杯を取り、感謝して言われた、『これを取って、互に分けて飲め。18あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない』。19またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。20食事ののち、杯も同じ様にして言われた、『この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。21しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。22人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである』。」(ルカによる福音書22:15~22(口語訳))です。
最後の晩餐とは『キリストが死の前日、12人の弟子とともに祝った晩餐でユダヤ教の過越 の定めによるものといわれ、キリストはパンとぶどう酒を祝福して弟子に与え、これを人類の罪のゆるしのため、あがないの犠牲として十字架につけられる自分のからだ、流される血であるとした。』(コトバンクから)
イエスが「この中に私を裏切った者がいる」と弟子たちに告げる場面が描かれた、レオナルドダビンチの作品としてもよく知られています。
このとき、イエスが食べたパンが種無しパン(無発酵パン)か種ありパンかで大論争となり教会分裂の原因のひとつにもなったのだとか。種というの現代ではイースト菌にあたるものです。
イエスの時代には、かつて奴隷状態だったユダヤ人がエジプトを脱出したことを記念する祭日である過ぎ越の祭の期間は酵母の入ったパンを食べていたそうで、最後の晩餐が行われた日が祭りの前か否かでどちらのパンを食べたかが異なるのです。
カトリックは種無しパンなのですが、東方教会は過ぎ越の祭り前という解釈で、酵母入りのパンを食べてもよいとしているそう。なお、プロテスタントもカトリック同様西方教会の流れで種無しパンですが、カトリックほど厳格ではないようです。
これは、聖書の記述がどちらにも解釈できることから起きた論争ですが、今回は詳しくはふれません。
参考:「最後の晩餐」のパンでキリスト教は分裂した (雑学ネタ帳)
聖金曜日(Good Friday) 4月15日(金)
金曜日は「聖金曜日」で、イエス・キリストの受難と死を記念する日、フィリピンではこの日に大掛かりな受難劇を行う伝統もあります。この様子は『The annual Buhing Kalbaryo philippines 』でグーグルで画像検索すると出てきます。
十字架に磔にされたとされるイエスキリストの死については、福音書のマルコ15章、マタイ27章、ルカ23章、ヨハネ19章に記述されています。
イエスが処刑されるのになぜ『Bad』でないだけでなく『Good』なのかという疑問が生じると思います。これは神学的な話になりますが、犯したした罪に対して償いをするという『贖罪』いう概念が、キリスト教では神に対して人間が犯した罪が償われて、両者の関係が和解されることを意味するようになりました。
『旧約聖書』においては、祭司の手によって動物が犠牲として捧げられることによって贖罪がなされたのですが『新約聖書』では、イエス・キリストが自分を十字架で犠牲として捧げることによって、一度限り決定的な贖罪がなされて、永遠に有効なものとなったと説かれます。
つまり、キリスト教では、イエスの死は、人類の救済のために命を犠牲にしてくれたことに対し感謝すべきこと、という意味合いになります。
ただ、贖罪といっても、キリスト教(の主流派の考え)では、すべての人が救われるという、いわゆる『万人救済説』はとられていません。
では、なぜ、『罪をおかした当事者(アダムとイブ)だけでなく、そもそも人類すべてが(子孫まで)罪を追わなければならなかったのか?』などは、現代社会の罪に対する考えとは異なることから(法的、基本的に親や先祖の罪(犯罪)の責任をを背負う必要はない)、現代人には理解しにくい問題で、神学的に議論となる問題です。
聖土曜日(Black Saturday) 4月16日(土)
この日はカトリックではイエスが眠りについていることを表し、結婚式も葬式も行われない日となっています。
復活の主日(Easter Sunday) 4月17日(日)
4月17日(日)は復活の主日で、十字架にかけられて死んだイエスキリストが三日目に復活したことを記念します。
『イースター』という英語の呼び名はゲルマン神話の春の女神エオストレ(OSTARA、OSTERA、EOSTORE)といった名前に由来しているとも言われます。つまり、ゲルマン人の春を祝う祭りと融合したという説です。イースターに卵を食べるイースターエッグの慣習も命が芽吹く春を感じさせる卵というところから来ているとも。(聖パウロ女子修道会「復活祭(イースター)」「イースターエッグ」)
『イースターエッグ』や、『イースターラビット』といったものは後世に生じた慣習ですが、「イエスの復活」についてはキリスト教神学的に非常に重要な事柄です。
勉強して今後当ブログでも取り上げてみたいと思います。