今回は少し第二次世界大戦、戦争の話をしたいと思います。
第二次世界大戦の日本軍に関する話題はセンシティブで歴史観や思想、政治的信条などの相違による議論に結びつきやすいのですが、このブログはあくまでゆるーくセブ生活の日常で思ったことや感じたことを記した日記であって、特に何かそういった主張を訴えようというような意図は無いことを始めに申し上げておきます。
で、次回の「セブの5年間を振り返る」では2度目の渡比でセブへの移住の気持ちが固まるまでの話をしたいと思っているのですが、それとも関係する話で、また今回の最後の方でお話しするように私の伯父が戦争でフィリピンに赴いたことがあったということもあり私のフィリピン(セブ)生活で触れておかないわけにはいかない話題だと思っています。
家庭教師の話
私の二人目の英語家庭教師にラバンゴン(セブ市内のバランガイ)に引っ越してから1日3時間くらい、週3回ほどレッスンを受けていました。
今でも基礎的な文法や語彙は独学で勉強は続けていますが、発音(プロナウンセーション)と会話(カンバセーション)の練習は独学よりレッスンを受けたほうが効果的だと思います。
私が英語学校で学んでいたときにある日突然担当先生のうちの一人が辞めたため、臨時でほんの1週間ほどレッスンを受けたのです。
彼女は教育分野では定評のあるセブノーマル大学で幼児教育を専攻していたこともあり、英語初心者の私にとってはとても相性が良く、できればずっと続けてほしいくらいでした。
彼女はもともと家庭教師がメインで(韓国人など外国人の長期滞在者やそのお子さんが主な対象とのこと)働いていました。連絡先を交換していて卒業後にレッスンをお願いしたのです。(英語の家庭教師は全部で4人からレッスンを受けたのですが、それについてはまとめて別の機会にお話ししたいと思います)
私の英語力はつたないものですが、ある日ティーチャーと戦争の話になって「日本兵が赤ん坊を放り上げて刀(銃刀?)で首を切り落とした」という話を聞いたのです。うちのカミさんも「日本兵が子供の首を刀で切り落とした」というのは聞いたことがあると言ってました。
赤ん坊を放り投げて首を切り落とすというのはかなりショッキングですが、日本人としては本当だろうかという気持ちにはなりました。
ただ、少なくとも当時のフィリピン人にとっては日本兵はそのように捉えられて今にまで伝えられているのでしょう。(後に、抗日ゲリラのプロパガンダとして、こうした話が広く一般的に知れ渡っていたことを知ります
フィリピンでの戦争
厚生労働省によれば、2009年3月現在、第2次世界大戦において海外で戦死した旧日本軍軍人・軍属・民間人約240万人のうち、日本に送還された遺体は約半数の約125万柱で残りの約115万柱については、海没したとされる約30万柱を含め、現在もなお海外に残されたままとのことです。(ウィキペディアより)
フィリピンでの遺骨収集は、2009年(平成21年)から厚生労働省がNPO法人「空援隊」に委託して実施した遺骨収集事業で、翌年10月に収集した遺骨にフィリピン人が含まれているのではないかとの報道を受け、同事業は中断されています。
その後、厚生労働省が2011年(平成23年)9月に、311検体のうちそれまでに鑑定できた130検体の結果について同年10月に検証報告書を公表し、翌2012年(平成24年)に鑑定された残りの181検体も併せて2018年(平成30年)になってやっと公表されました。
その時の報告は前年に行われた調査と併せフィリピン国内にある収集された遺骨を日本でDNA鑑定したもので「311検体のうち『日本人に統計的に有意に見られるハプロタイプに一致した個体』が5、『フィリピン人に統計的に有意に見られるハプロタイプに一致した個体』が169、判定不可などが137」と、収集された遺骨は、日本人と思われる遺骨よりフィリピン人と思われる遺骨の割合が圧倒的に高いというものでした。
「フィリピン国内に保管している遺骨のDNA鑑定結果について」(厚生労働省)https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000174117_00008.html
遺骨収集は再開される予定とのことですが今後、適切な対応が望まれます。
従軍慰安婦の問題も最近、フィリピン人がボラカイの近くに慰安婦像を建てるといった報道がありました。
個人の意見はいろいろあるでしょうが、日本政府の歴史認識や賠償問題などのこれまでの取り組みなどは、外務省のホームページに掲載されているので認識しておく必要はあるかと思います。「歴史問題Q&A(アジア)」(外務省HP)
またフィリピン各地には戦争遺跡も多く残されています。セブも戦場になっていますし、セブから近いレイテ島のタクロバンはマッカーサーが上陸した場所でもあります。
マッカーサーの上陸記念碑もあります。
(どちらもWikimedia commons から)
今後も戦争遺跡を訪ねたり勉強していきたいと思います。
NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 第5集踏みにじられた南の島 ~レイテ・フィリピン~
「NHK 戦争証言アーカイブス」というウェブサイトがあります。その中にフィリピンについて「NHKスペシャル ドキュメント太平洋戦争 第5集踏みにじられた南の島 ~レイテ・フィリピン~」(以下『動画』という)が収録されています。
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001200006_00000
観ていて辛くなってきますし、もし自分があの時代にいたらと思うと複雑な気持ちになりますが、よければご覧ください。
1944年(昭和19年)10月、「アイ・シャル・リターン(I shall return)」の言葉どおり、マッカーサー将軍はフィリピン・レイテ島に上陸、米軍の圧倒的な物量の前に日本軍は敗北を重ねます。もうひとつレイテ決戦の勝敗を決めたのは、フィリピン住民によるレジスタンスです。ゲリラや住民の大半が米軍側に回り、日本軍は完全に退路を断たれてしまいます。
現代においてはフィリピンは親日国としてあげられる国ですが、当時の反日感情については「日本軍がフィリピン人を敵に回すことになった理由」として作品の中で描かれています。
動画の中に街角の抗日宣言の絵で、日本兵が赤ん坊を銃刀で突き刺している姿が描かれている写真がでていましたが、家庭教師の話はこれによるものなのかとも思いました。
1944年10月のレイテ沖海戦からのフィリピンでの戦闘でアメリカ軍の戦死・戦病死者は約23,000名、日本軍の戦死・戦病死者は約40万人、フィリピン人に関しては全土が戦場となり、フィリピン連邦軍多数、民間人約100万人の犠牲者と60億ドル(1950年価格)にのぼる物的損害を出しマニラなどの主要都市は壊滅し、多くの文化財が永久に失われたとのことです。(ウィキペディアより)
フィリピンの紙幣
(Wikimedia commonsより)
写真左上のホセ・アバド・サントス(José Abad Santos, 1886年2月10日 – 1942年5月2日)は1941年12月24日よりフィリピン独立準備政府(コモンウェルス)の最高裁判所長官。バターン半島の戦いで米比軍は日本軍に敗れ、ケソン大統領とダグラス・マッカーサーは1942年3月にコレヒドール島要塞を放棄しオーストラリアに脱出するが、アバド・サントスは同伴せずフィリピン残留を決意。ケソン大統領より、非占領地域の「フィリピン大統領代行」に任命され、後を託された。その後セブ島に逃れ抗戦を試みるが、1942年4月11日に息子らと共に日本軍に捕縛され強制収容所に連行された。日本軍政への協力を求められたが拒否。ミンダナオ島に連行され、同年5月2日、日本軍により銃殺刑に処せられた。
写真中央のビセンチ・リム(Vicente Podico Lim)(1888年2月24日 – 1944年12月31日)はアメリカ陸軍士官学校の最初のフィリピン人卒業生。フィリピン人の抵抗運動に貢献した。フィリピンの国軍を率いていたが日本軍の侵攻によるバターン半島の戦い後、捕虜となり「バターン死の行進」を経て1944年6月、オーストラリアにいるマッカーサーに合流しようと試みるがネグロス島に向かう途中で捕獲された後収容所に送られその後処刑された。
写真下の女性ホセフア・リァーネス・エスコダ(Josefa Llanes Escoda)(1898年9月20日 – 1945年1月31日)はフィリピン女性解放運動の指導者にしてアメリカでの訓練のちフィリピンのガールスカウトを創設する。夫とともに抵抗活動をしていたが共に日本軍の捕虜となりサンティアゴ要塞に投獄された。協力を強制されそれを拒否したことにより処刑された。
(いずれもウィキペディア日本語、英語版を参照)
叔父の話
私の父の兄にあたる伯父は私が20代の頃にがんで亡くなったのですが、とても無口な人でほとんど会話を交わした記憶もなく、黙々と仕事をしている印象しかありませんでした。家具職人で私の勉強机や家にあったタンスなどはみな伯父が作ったものでした。
父がサ高住(サービス付き高齢者住宅)に引っ越した際に整理していた物の中に伯父の遺品もあって、その中に戦争中に赴任した場所が記録されている書類があったのですが、満州やインドネシアの方などとともにセブの南に位置するネグロス島の「ドマゲッティ」も記されていました。
ドマゲッティは私も何度か訪れた街です。伯父が戦時中に私と同じく日本から遥か彼方のフィリピンの地を踏んでいたというのは何か不思議な気持ちになります。
また私の父は昭和一桁生まれで予科練生でしたので、場合によっては伯父と同じく戦場に行っていたかもしれません。
カミさんの話と結び
私のカミさんが子供の頃にヘリコプターが飛んでいるのを見たら「日本(軍)が来た」と皆で叫んで地面にうつ伏すという遊び?をしたそうです。
何といってよいか言葉に窮する話ですが、子供たちのたわいない遊びの中にも戦争という事実の記憶のかけらが残っているのかと。
「学校で戦争の歴史は教わるの?」と聞いたら「教わった」というので教科書を見せてもらおうと思ったのですが、家に段ボール箱に詰めてとっておいたのを、大学生を卒業した時に弟にゴミと間違われて捨てられたとのこと。
フィリピン人からの視点で語られる戦争の話はどんな感じなのだろう。
第二次世界大戦における反日感情は先ほどの動画で触れられていますが、その背景としては米比戦争を経て、1934年にアメリカ議会で10年後の独立を認めるフィリピン独立法が可決され、(アメリカの思惑は別として)やっと300年以上の植民地からの独立という希望の光が見えたところに戦争に巻き込まれたという思いがあったこともあるかもしれません。
また動画でも少し触れられていますが日本国内のキリスト教徒でさえ困難な時代にカトリック教徒が大多数を占めるフィリピンでは当然宗教的な抵抗もあったでしょう。
動画の最後でフィリピン人の歴史家レナト・コンスタンティーの氏の「二頭の象が戦い地面のアリが踏みつぶされるようなものでした」という言葉が印象的です。
日本では「火元は7代祟る(火事の火元は、周囲の人々に迷惑をかけて長い間うらまれるということ)」といわれますが、フィリピンでは焼け野原にされ、家族も亡くなっっているわけで、恨むのは人として当然の感情でしょう。
東京裁判において、フィリピンが派遣したペドロ・ロペス検事とデルフィン・ハラニーリャ判事は日本の戦争責任や戦犯による残虐行為の責任追及の急先鋒だったとのことです。
また、フィリピンの在留邦人も財産を没収のうえ追放され、北部ルソンやミンダナオ島を中心に残された日系人は厳しい戦後を歩まなければならなかったようです。
一方、下記の外務省HPから引用すると「1953年6月,フィリピンのモンテンルパ刑務所に服役していた105名の日本人戦犯は,キリノ大統領(当時)の恩赦により,全員釈放されました。キリノ大統領は,夫人と子供3人を太平洋戦争末期に失いましたが,「自分の子供や国民に,我々の友となり,我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために,これを行うのである。」との声明を発出しました。戦後の厳しい対日感情の中で,批判を恐れずに行われたこの恩赦は,1956年7月の日比国交正常化に大きく寄与し,今日の日比友好の礎となりました。」とあり
2016年(平成28年)6月18日に日比谷公園にエルピディオ・キリノ・フィリピン共和国元大統領(H.E.Elpidio QUIRINO,former President of the Republic of the Philippines)の顕彰碑が建立されました。
(「夫人と子供3人を太平洋戦争末期に失いました」と婉曲して書かれていますが、大統領の妻と長女は銃殺、2歳になる三女は刺殺されています。)
「キリノ元フィリピン大統領の顕彰碑除幕式」(外務省)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_003390.html
ちなみにその刑務所で収容されていた作詞の代田銀太郎と作曲の伊藤正康による「モンテンルパの歌」は、収容されていた日本人111名の、日本への望郷の念を込めた曲で、この歌のヒットや関係者の努力がキリノ大統領の心を動かしたともいわれているそうです。終戦は1945年8月15日ですから1953年の解放まではとても長い期間です。
現代に至る日本とフィリピンの友好関係の最初の一歩、まさに礎となった出来事といえるのでしょう。
私が移住を決意するまでの経緯は次回の「セブの5年間を振り返る」でお話ししたいと思いますが、一番大きな理由は私にとっての「居心地の良さ」です。
その「居心地の良さ」の大きな要因の一つはフィリピンの人々がみな親日的であることです。私が出会った人で(内心は分かりませんが)少なくとも反日的な印象を持ったことはありません。
教育にしろ、紙幣のことにしろ「戦争のことは忘れてはいない」けれども、ほとんどのフィリピン人は憎しみを持ち続けるのではなく「昔のこととして日本人を受け入れて」くれているような気がします。
私がセブに来たころにマクタン大橋を渡るときやダウンタウンのトンネルを通るときに「これは日本の援助でできた」とフィリピン人から教えてもらいました。そういった政府の努力や私の先輩にあたる多くの移住者の働きなどが評価されているということもあるかとも思います。
とはいえ戦中、戦後の強い反日感情が現在において和らいだ一番大きな要因はフィリピン人の気質ではないでないかと思うのです。
いろいろな見方があるとは思うのですが、何百年もの間、列強の植民地として支配されながらも独立に向け抵抗する強い意志と力強さを持ち、また、後ろは振り返らないで前をみるポジティブさを感じ、私はリスペクトしています。
フィリピンとの友好関係が今後も続きますように。移住者のひとりとして、できることをしていきたいと思うのでした。
前回の投稿の補足です
《追記》
- 診察を受けて思ったのは、体重計はあって乳幼児の体重を計っていましたが血圧計は無さそうでした。日本だとまず血圧ですし、フィリピン人は高血圧の人が多い気がするので、必要ではと思ったのでした。
- 薬の種類を記録しておきます。
1Co-amoxiclav Augmentin® 625mg tablet
https://www.medicines.org.uk/emc/product/281/smpc
2Aziyhromycin Dihydrate Zithromax® 500mgTablet Antibacterial
https://www.medicines.org.uk/emc/product/6541/smpc
3Acetylcysteine Exflem® 600mg Granules for Solution
Mucolytic https://www.unilab.com.ph/products/exflem-sachet/
4Paracetamol Biogesic® 500mg Tablet Unilab,inc.
https://www.unilab.com.ph/products/biogesic/
薬のせいか咳は少しおさまってきました。