前回からかなり間が空いてしまいましたが再開しますのでよろしくお願いします。今回は「海外在住と親の介護問題(中編)」です。
私がセブでの英語学習を終えて、「この地で暮らしたいなあ」と思い始めた頃、父はまだ元気でしたが年齢は80歳を超えており、離れて暮らすことに迷いはありました。
ただ一方でその頃の私はまだ精神的に参っている状態で(退職に至った原因の一つでもあります)、日本で暮らすことは自分が行き詰まるという思いもあり、その狭間で悩みました。
”海外在住”といってもセブから成田までは直行便も毎日運行しており所要時間は約4時間半です。直前の購入だとチケット代は高くなりますが何かあったら(ビザなど他の問題がなければ)翌日には駆けつけることができます。
私の父は戦後、若い頃に長崎から上京したのですがその頃は夜行列車だったそうです。それに比べれば感覚的にはむしろ近い位かもしれません。
また、父はスマホもパソコンも使えないので最初の頃は普通に国際電話を使っていましたが後に利用する『スカイプ電話』だとかなり費用も抑えられ、安否確認の意味も含め毎日会話することもでき、普段は日本での遠距離生活とそう変わらない日々を過ごすことができます。
(『スカイプ電話』はこちらがスマホなどでインターネット環境があれば相手方の携帯電話や固定電話にかけることができます。例えば1ヶ月300分までで月額850円などのいろいろなプランがあります。)
そのような状況で、「当面は『完全移住』ではなく、なるべく頻繁に日本と行ったりきたりして、できる限り早くセブでのビジネスを安定させ、介護が必要になったら在宅・施設の何れにせよ日本中心の生活にシフトしよう」と考えたのでした。
しかし、それから3年後に元気だった父が認知症となりました。その過程で「海外在住と親の介護」についていろいろと考えたり調べたりしたことをお話したいと思います。
前回お話した内容は、「父とはスカイプ電話を使って安否確認の意味も含めほぼ毎日話をしていたが様子のおかしい日が続いたので帰国の準備をしていたところ、とうとう電話で『電気が止められた。早く帰ってきてくれないか』という話があり、実際に帰国し父と会ったところ認知症であると認識するに至るまで」でした。
認知症のサイン(続き)
前回お話した「父が管理していた伯母の預金通帳の紛失騒ぎ」は2017年8月なので今から約2年半前のことになります。当時「認知症と預金通帳再発行」や「父親の介護保険」「父の認知症 サービス付高齢者住宅探し」「父のサ高住(サービス付き高齢者住宅)探し。急展開」「父がサ高住に入居しました」などのタイトルで投稿したところです。
父の行動で気がついたことを挙げると
- 掃除や片付けをしなくなる
- 同じものをいくつでも買ってしまう
- いろいろなものを捨ててしまう
- お札をハサミで切ってしまう
- 物忘れが激しくなる
- 金銭管理ができず二か月分の年金を一か月で使い切る
- 夜中に起き出して叔父に電話する
- お腹がすいたとカップラーメンをつくるが、ほとんど残す
- 何本も買ったペンをすべて無くす(捨てる)
- 火の消し忘れが多くなり、私の入院中、やかんの空焚きで火災警報が鳴り、警察、消防車が来る騒ぎとなる
などがあります。このなかでいくつか取り上げてみます。
掃除好きだったのに部屋を掃除していない
父はとにかくこまめに掃除をする人でした。髪の毛一本残さぬように念入りで、また、物が置きっぱなしになっているのも我慢できないようでいつも小綺麗に片付けをしていました。
しかし久しぶりに家に戻ると以前とは見違えるようになっています。こたつの下には食べかすなどもそのまま散らかっており、ひどい有様でした。
大事な書類などが捨てられている
きれい好きな一方、父は物を捨てない性分で、狭い家なのに私が生まれた頃のおもちゃなども捨てずにとってありました。
ところがいろいろなものが無くなっていることに気が付きました。父には以前は「いらないものは捨ててよね」と度々言っていたので、片付けてくれることはいいのですが、大事なものまで捨てられていたのです。
前回、「グループホームに入っている伯母の通帳の紛失騒ぎ」のお話をしましたが、管理していた伯母の通帳も多分捨ててしまったのでしょう。誰かに盗まれたり騙されたりして引き出されていなかったのは幸いでした。
そして、私が不在の時に届いた私宛の郵便物や、私の部屋に置いておいた書類などがほとんど捨てられていたのです。本人は「捨てていないよ」というのですがどう考えても捨てられていました。
大量に惣菜を購入して廃棄
買い物には毎日出かけていました。惣菜のパックを大量に買って冷蔵庫に入れるのですが次の日にはゴミ箱に捨てているのです。

また、味覚に関しては以前から醤油をたっぷり使い塩分取りすぎではあったのですが、さらにエスカレートして尋常ではない量の砂糖と醤油をパンにのっけて食べているなど、食生活でも気になる点が目につきました、
深夜に起きてカップラーメン
認知症ではよく「朝昼晩の食事をとったことを忘れる」と聞きますが、それほど極端ではないですが、夕食はちゃんと食べたのに夜中に起きてカップラーメンを食べたり、結局食べ残したりと以前とは少し異なる行動は気になりました。
金銭管理ができない
前回、電気代を払えず「電気を止められた」話と「グループホームの叔母の通帳を紛失した」話をしましたが、もう金銭管理が難しい状況でした。
年金は2ヶ月毎に通帳に振り込まれますが毎日買い物に行き2か月持たないペースで使ってしまいます。
この頃は私が結婚ビザの手続き中でなかなか帰国することができず確か半年近く間が空いてしまっていたのですが、前回の帰国のときには問題はなく、これほど急に変わってしまうものかと驚きました。
ビザの関係で一旦はセブに戻らなくてはならず、あれこれ一人で悩んでも仕方がないので、「まず伯母の通帳問題を解決し、とりあえず電気や水道、ガスなどは私の口座から引き落とすようにして、あとは市の福祉課に相談する」ことにしました。
(結果的には市の福祉課ではなく後でお話する地域包括支援センターに相談し介護保険手続きを進めることになります)
介護保険の手続きを行う
介護保険制度を知る
公的医療保険は大抵の人は利用したことがあると思いますが介護保険は馴染みがない方も多いと思います。制度もとても複雑ですので、いざ必要という事態になって慌てる前に基本的な知識を知っておくことが大事だと思います。
介護については本人だけでなく家族における「介護離職」「老老介護」「親子共倒れ」などといった深刻な社会問題が生じています。
厚生労働省のホームページ 「仕事と介護の両立支援 ~両立に向けての具体的ツール~」 には「親が元気なうちから把握しておくべきこと」や「ケアマネージャーに相談する際に確認しておくべきこと」のチェックリストや「仕事と介護両立のポイント」などが掲載されています。
介護サービス利用の流れ
厚生労働省ホームページの「介護サービス情報公表システム」の「介護保険の解説」では「サービス利用までの流れ」として
- (市長村窓口への)要介護認定の申請
- (市区町村等の調査員による)認定調査・主治医意見書
- 審査判定(コンピューターによる一次判定、介護認定審査会による二次判定)
- (市区町村による)認定
- 介護(介護予防)サービス計画書(ケアプラン)の作成
(「要支援1・2」は地域包括支援センターに相談、「要介護1以上」は介護支援専門員(ケアマネージャー)のいる居宅介護支援事業者(ケアプラン作成事業者へ依頼)) - 介護サービス利用の開始
と説明されています。しかし私の場合はこの順番とは少し異なっていました。
まず地域包括支援センターに相談したところケアマネージャーを紹介してもらいケアプランの作成をして介護サービスを始め、並行して私が一旦セブに戻っている間に相談員さんとケアマネージャーさんで1から4までを進めていただけたのです。
介護(介護予防)サービス計画書(ケアプラン) とケアマネジャー
介護保険制度ではサービスは利用者が選択することができます。しかし、医療保険制度では基本的に患者は自由に病院を選び受診するこごができますが、介護保険制度では 利用者がサービスを選択するにあたっては「介護サービスの利用計画 (ケアプ ラン)」 を作る必要があります。
一般的にはそのケアプランを作成するのがケアマネージャー(ケアマネ)です。(セルフケアプランといって自分で作成することも制度上は可能です)
困難事例であるほどケアマネージャーの経験や資質による差がでてくることは確かだと思います。介護の経験のある知人からはケアマネージャーを変えた例なども聞きました。ケアマネージャー選びは大きなポイントと言えます。
『意思決定とキーパーソン』とは
厚生労働省ホームページに 認知症の人の日常生活・社会生活における 意思決定支援ガイドライン が掲載されています。
介護保険制度で介護サービスを受ける場合はあくまで利用者本人と介護サービス事業者との契約になります。利用者が認知症である場合など本人だけでは意思決定が難しく家族などの協力が必要な場合も多いのではないかと思います。
この中では「本人;80 代 女性 一人暮らし 、家族;長男 県外在住 60 代 月 1 回帰省し本人の世話を行っている 、支援者;近隣住民」の場合にどのように意思決定を行ったかなどの事例が提示されています。
私の場合、家族は私のみですので私が家族代表として調整しました。認知症の症状はありますが、父はまだ意思決定ができる状態ですから本人の意志を尊重してケアプランの作成にあたっては本人にも理解してもらうように務めることが必要です。
地域包括支援センターへ相談
介護保険を受けるきっかけは色々あると思います。入院した場合は病院の医療ソーシャルワーカーに相談できるかもしれません。
伯母の場合は認知症で同居していた妹が介護していたのですが突然亡くなって介護する家族もいなくなり、収入も国民年金のみだったことから父が市役所の福祉課のケースワーカーに相談し生活保護を受けグループホームに入所する事ができました。
また近くに認知症カフェやデイケアサービスセンターがあれば直接訪れてみて話をしてみることもできるでしょうし、市町村などではいろいろな認知症に関するセミナーやイベントを行っていますからそこでも情報を得ることができます。
厚生労働省のホームページでは認知症に関する相談先 としてまず「地域包括支援センター」があげられています。運営主体は市町村ですが社会福祉協議会などに委託しているケースもあります。
とにかくひとりで悩まず、まずは誰かに相談することです。私の場合もまず近くの地域包括センターに電話をして相談しました。その翌日には自宅に相談員さんが訪問してくれて父とも面談し、すぐに介護認定の手続きが始まりました。
介護サービスを受ける
担当の地域包括支援センターの相談員さんは国家資格である社会福祉士資格を持つ福祉の専門職であり親切丁寧に担当してくれました。
私が一旦セブに帰らなければならない状況も理解してくださり、ケアマネージャーをすぐに決め2回目の訪問では一緒に来て父と会い、私の希望などを聞いた上で具体的な「ケアプラン」の作成に入りました。
私からの要望としてはまず見守りも兼ねて「家事援助」を希望しました。あとは相談員とケアマネージャーの意見で介護予防にもなる「デイサービス」、そして父は病院に通院しており「訪問看護」も取り入れてもらいました。
そして、私がセブに戻る前に、それぞれの事業者が家に集まって「サービス担当者会議」を開きました。
私からは「金銭管理の問題が心配」ということも話したのですが、恐らく父の状態では最初は要介護度2程度になるだろうという見込みで、それだと最初から特養などの施設入所は難しく、在宅でのサービスから始めることとなりました。
私はなるべく早く一旦セブに戻らなくてはならない状況だったのでまずは介護サービスを始め、セブに戻っている約1ヶ月の間に介護サービスを開始し同時に介護認定を進めてもらえました。
正式な介護認定には時間がかかりますがこのようなことも可能です。(ただしもし介護認定が通らなかったら当然全額自己負担となってしまうので相談員やケアマネージャーと確認のうえ行う必要があります。)
再度の一時帰国と介護サービスを実際に受けて
私が再びセブから戻ったらすでに「要介護2」が認定されていました。
私の不在中デイサービス・訪問介護(ホームヘルプ)・訪問看護を実際に受けてみてどうだったか、気になるところです。
一応毎日の電話は続けていましたが元気でいるかどうかの確認程度です。実際に合って「どうだった?」と聞くととても意外に喜んでいる様子でした。 以前だったら訪問介護の掃除も嫌がったであろう父ですが 話し相手が来てくれるのが嬉しいようでした。
デイサービスは一番嫌がると思っていたのですが、あまり積極的に行きたいようではないものの嫌だとは言わなかったので安心しました。利用する前に見学に行ったのですがそこは地域密着型通所介護施設ということでアットホームな感じが良かったのかもしれません。
また、訪問看護はやはり看護師さんが来てくれるのはやはり安心です。
私の入院
以前投稿した「3日間意識不明を経て退院しました」でお話しましたが日本に帰ってきてほっとする間もなく、私が入院することとなります。
家で突然左手がしびれる感覚で「これはやばい」と感じ、近くにいた父に「救急車呼んで」と声をかけたところまでは覚えています。
しかし気が付いたときは病院のICUのベッドでした。どうやら倒れたときに唇のあたりを何かにぶつけたようで傷になっていました。まったく倒れた際は全く受け身も取れていなかったことがわかります。
運転中や入浴中でなかったのが幸いです。また、その時父はしっかりと救急車を呼んでくれたうえに私の主治医の病院も救急隊員に正しく伝えてくれたのでした。
そして、数日後に父を迎えに来たデイケアサービスの施設長さんが父との普通の会話で私が救急車で運ばれたことを察し、すぐに消防署に行くなどして私の入院を確認しケアマネージャーさんに連絡してくれたのでした。
迅速で積極的に行動してくれたおかげでとても助かりました。この時私はまだ集中治療室で眠っていたのです。
火の消し忘れ騒ぎで独り暮らしは無理と判断
父はなぜかガスを使わずカセットコンロを使っていました。私が一般病棟に移った後、父がカセットコンロを消し忘れたまま外出し、火災警報が鳴ってしまい、消防車が駆けつけるという騒ぎがありました。
この一件でもう一人暮らしは無理という思いが強くなりました。自分自身に関することならまだしも、火事を起こして近所に犠牲者でもだした、らそれこそ大変なことになります。
「要介護認定調査」のときに普段とは全然ちがってシャキッとすることがある、という話を聞くことがありますが、 このころは普段でもしっかりしている時とそうでない時が混在していた気がします。
後編ではサービス付き高齢者住宅(サ高住)への転居という決断以降についてお話したいと思います。
終わりに
世界的に依然として新型コロナウィルスによる感染者拡大が続いており、私が今いるセブも「コミュニティ隔離措置(ECQ ;Enhanced community quarantine)」と呼ばれるロックダウン状態にあります。
当初は先週のホーリーウィーク(※)明けまでの予定でしたが、政府の方針に準じて今月末まで延長されました。もともと貯蓄率が低く、余裕のない多くのフィリピン人にとっては今の状態はとても厳しいものです。
政府からは食料配給のほか、私に関係することでいえば「LTFRB( 陸運統制委員会 )」によるタクシーやジプニーなどのドライバーへの現金給付も行われます。
しかし財政赤字を抱えながらインフラ整備・経済成長を進めてきた政府の財政基盤は脆弱で補償や支援に限界があることは大統領も認めているところです。
フィリピンではすでに多くの人が無収入に陥っています。 政府の対策はもちろんですが慈善団体、企業、家族や親戚、友人、近所同士、誰というのではなく、それぞれが自分にできることで「支え合う」日々を過ごしています。
※ホーリーウィークについては2018年の記事ですが「イースターとホーリーウィーク」をご参照ください。
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