46歳うつ状態で公務員早期退職そして英語留学を決めるまで(フィリピン セブ暮らし1)

長年勤めた公務員を46歳で早期退職し、2014年に初めてフィリピン セブの地に足を踏み入れてから、早いもので、今年で丸9年になろうとしています。

そこで、今まで投稿した、この9年間の振り返りを、まとめて再投稿していきたいと思います。

今回のブログは2018年12月20日の投稿(※1)と2020年7月28日の投稿(※2)の本文をまとめたものです。

(※1)現タイトル「『ミス・ユニバース』『クリスマス・バケーション』『バイクタクシー(ハバルハバル)のアンガス』」:旧タイトル「『フィリピン留学を決めるまで』ほか(セブでの5年間を振り返る1)」
(※2)現タイトル「『コロナうつと今の生活』『今後のこと(再スタートの場所)』」:旧タイトル「鬱(うつ)とフィリピン・セブ暮らし」

はじめに

「うつは心の風邪」という言い方もされるように、「誰もがなる」という認識は社会に広まってきました。

とはいえ、『うつ』は「風邪ではなく骨折」(※1)とも言われ、こじらせると長引き、治療が厄介になったり、再発率も約50%といわれるように、簡単な病気ではありません。

「気分が滅入る、落ち込む」というような、一過性の「うつ状態」は誰もが経験しますが、一生のうちに治療が必要になるような「うつ病」になる人は15人にひとり(※2)だそうです。

私は公務員を早期退職したのですが、「今振り返ると、病院へ行ったら『うつ病』と診断されただろう『うつ状態』だった」と思っています。

公務員に限らず「仕事に追われ」たり「職場の人間関係」のストレスで日々、苦しい思いをしている方も多いのではないかと思います。

『ひとつの生き方』の例として、ご覧いただけたらと存じます。

(※1)「うつが「すぐ治る人」「重症化する人」の決定的差 15人に1人がかかる「心の骨折」との付き合い方」(東洋経済ONLINE 2020/12/06)
(※2)「うつ病を理解しよう」(仙台市)

なお、うつ病については、冒頭でご説明した元の投稿でも触れていますのでご覧ください。
『コロナうつと今の生活』『今後のこと(再スタートの場所)』

「うつ状態」で退職するまで

私は、退職までの5年以上、総務係長という立場にいて「衛生管理者」という資格を取ったり(取らされたり)し、メンタルに問題を抱える職員(部下もいました)と関わることもありました。

うつ病にはさまざまな原因が考えられ、環境や個人の体の状態によって治療方法も異なります。いろいろな薬が開発されていますが、それで治るとは限りません。

一般的な身体の病気は、検査で数値や画像などから、病気であることが客観的に明らかにされるケースが多いものです。

しかし、『うつ病』などの精神疾患の医師の診断は、通常、問診などから判断されるもので、メンタルによる休職は「なまけているのではないか?」「頑張りが足りないのではないか?」といった周囲の目が注がれることもあります。

確かに、私が接したケースでも、『躁うつ』の場合、調子が良いときはすごく元気で、『うつ状態』にあるときは「それが病気によるものなのか?、本人のやる気の問題なのか?」は、素人にはよく分からないと感じることもあったのは確かです。

また、休職からの復帰に際しても、「改善に向かっているのか?」、「復帰できるタイミングなのか?」など、本人の意志に頼らざるを得ない(医師の診断もどこまで信頼できるのか?)、といった難しさを感じたものでした。

うつに関しては、本当にケースバイケースで、個々に異なり、なかなか、ひとくくりに「こうだ」と「こうすべきだ」とは言えない面もあります。

公務員と「うつ」

睡眠障害

公務員といってもいろいろな種類や職種がありますが、一般的には昔から「安月給」でも「楽な仕事」というイメージがあるようです。

以前は職業を選ぶにあたって、あまり人気がない時代もあったようですが、近年では「安定した職業」「給料や福利厚生が整備されている」などというような理由から「親が子に望む職業」では常に上位に位置します。

確かに私が就職した頃は、今よりのんびりとした雰囲気が残っていたように思えますが、公務員をとりまく環境は大きく変わってきました。

そういった環境のなか、私は、30代になった頃から睡眠に悩まされていました。

もともと朝は弱い方だったのですが、寝付きが悪くなり、寝床に入ってもなかなか眠れない状況が続き、メンタルクリニックに行って睡眠導入剤を処方してもらっていました。

同時に「軽いうつ状態」という診断で、軽めの精神安定剤も処方され、服用していました。

土日など、前日に薬を飲まないと夜更かしして、昼過ぎまで寝てるという感じでしたが、薬を飲めば、平日は朝は出勤時間には間に合うように起きることができたので、仕事に支障がなかったのは幸いでした。

変調

30代で昇任試験にも受かり、約付き職員として益々忙しくなり、とても忙しい職場に異動になります。

その職場では、平日の残業は平均して毎日9時から10時位までで、月100時間を超えるほど。さらに土日に業務が多かったのですが、平日に振替で休むこともままならず、年休(有給休暇)を取る余裕もありません。

「頭痛」「軽いめまい」「体のだるさ」などを感じていましたが、環境が変わったこともあり、疲れのせいだと思っていました。

普段はそれほどではないのですが、ときどきひどく体調の悪い時があり、夏頃でしたが、周りにも心配され、午後に休みをとって職場に近い病院の内科に行ったのです。

しかし医師からは、問診だけで特に検査もなく「精神的なものでしょう、メンタルクリニックを受診してみたらどうか」と言われたのでした。

先程お話したように、実はその時すでにかかりつけのメンタルクリニックで、睡眠導入剤と軽い抗うつ剤を処方してもらっていました。(調子の悪い時のみで常時服用していなかったので、問診票には書かなかったのでした)

仕事はますます忙しく、休憩時間もろくに取れない状態でしたが、ふと職場の建物の最上階の窓から下を眺めると、「このまま飛び降りたい」と思うこともたびたびあり、その景色は今でも鮮明に覚えています。

その後、年末になって違う内科に行ったのですが、また「うつですね、処方します」と言われたのです。デジャブのような繰り返し。

年が明けても体調は一向にすぐれません、「めまいや体のだるさ」が気になり、頭の検査をしたいと思うようになりました。

脳腫瘍という診断

年度の事業がすべて終わると、年度末(3月下旬)は、若干、忙しさは落ち着きました。

職場の健康診断で「脳ドック」を受けれればよかったのですが、年齢が決まっており、私は対象外でした。

しかたがないので、MRI設備のある脳神経内科のクリニックへ行ったのです。

そこの医師も、当初の診察で「(症状は)デスクワークで肩こりからくるのでしょう。肩こり体操を教えるから毎日やりなさい、あまり気にすると余計に良くない」と、すごく楽観的。

MRIを撮り終えて、その日のうちに結果を教えてもらえるのですが、先生は、撮る前とは全く異なる真剣な表情で「脳腫瘍です。紹介状を書くので、すぐに脳神経外科のある大きな病院に行ってください」とのこと。

画像には素人でもはっきりと分かるものが写っています。それもウソみたいに大きい。

家からそう遠くなくて、一番大きい病院の紹介状を書いてもらい、その足で向かったのです。

しばらく待つと主治医となる先生に呼ばれ説明がありました。「写真だけ見ると緊急搬送されたのかと思うくらい大きい腫瘍」とのこと。

大きさは8センチ位とのことで、握りこぶしに近い大きさ。確かにこんなものが頭の中にあってよくこのくらいの症状で済んでいたものだと思うほど。

後に「学会に報告していいですか」と聞かれたので、症例報告になるようなケースだったのでしょう。

このとき「脳腫瘍であることのショック」と同時に「ああ、今まで辛かったのは全部これのためだったのか」と「原因が分かってホッとした」気持ちもありました。

入院そして手術

その後、入院して手術を行うことになるのですが、詳しくは、その後の「再発」「意識不明で救急搬送された」話などとともに、別途投稿したいと思います。

手術は朝9時に始まり、術後管理のICUで目が覚めたのは夕方4時過ぎ、7時間以上に及びました。

主治医の先生から、無事成功し「腫瘍は取り切れた」と説明されましたが、後に再発することになります。

何しろ、大きな腫瘍を摘出したのです。術後のMRIを見ると、その腫瘍があったスペースには脳が普通におさまっているのですが、「それはそれで大丈夫なのか?」心配になります。

術後の症状

術後、めまいがして、入院中に眼科の検査も受けますが、特に異常はないとのこと。

1ヶ月ほどで退院します。

ただ、その後も気になる症状が続きました。職場に復帰した頃のメモを残しています。

不眠(眠れない、寝付けない、朝早く目が覚めてしまう、ぐっすり眠った感じがしない)、過眠(起きられない・眠りすぎる)、食欲不振(食欲が無い)、吐き気、胃の不快感、または、過食(食べ過ぎる)、口が渇く、味覚が変わった、倦怠感(体がだるい)、疲労感(すぐに疲れる)、めまい、耳鳴り、頭痛、頭重、肩こり、体の痛み、息苦しさ、動悸、手足のしびれ、冷感など

もっとも、頭の手術ですから、これくらいの症状は、出てもあたりまえなのかもしれません。

主治医にも「あまり気にしすぎないように」と言われたのですが、どうしても気になります。

日々、命のやりとりで、患者と接していて、重篤な後遺症も多く目にしている医者からの視点と患者のそれとはやっぱり異なってくるでしょう。

まあ、日常生活に支障をきたすような体の麻痺や、高次脳機能障害でない限り、よかったと思わなくては。

復職後

先程お話したように、公務員時代の最後の方は、出先事務所で「総務係長」というポジションにいました。

国家公務員向けの「管理監督者のためのガイドブック 国家公務員とメンタルヘルス」(人事院職員福祉局)が公開されていますが、自治体でもこのような「メンタルヘルスハンドブック」が作成されていて、研修に参加したり、所内の職員に向けて、職場研修なども行っていました。

この冊子に書かれているように、メンタルヘルスにおいては「上司、同僚、部下との人間関係」「パワハラやセクハラといったハラスメント」「過剰な残業などの労働環境」などさまざまな要因が「ストレス」となって影響を及ぼします。なかなか複雑です。

「職員数70人くらいの事務所で、4人、5人が心の病により休職している」なんていう職場もありました。

そこは全体的にかなり業務量の多い職場でしたが、全庁的に残業時間の削減が求められ、サービス残業が恒常的に行われていました。

一方、そのころ、自分自身も「うつ状態」であったのです。

ストレスとうつ状態

「総務の仕事」というとルーチンワークのように思われがちですが、本庁からの、「思いつきのような新しい指示・ルール」や「ろくにフィードバックされず、何のために使われいるか、意味があるのかよく分からない調査」などの業務が、期限など一方的に決められ、雨あられのように降り注いできます。

何か「不祥事や事件・事故、問題」が起こるたびに、再発防止策や、より入念な事務、定期的な調査などが、どんどん増えていきます。

総務の仕事は、このように「ビルド」されていく一方、「定数はどんどん減らされ」、「スクラップ」はあまりなく、しいてあげればOA化ですが、現場ではかえって負担が増えることも多く、年々大変になっていきます。

総務係長の場合、調査や業務の割り振りといった、担当間の横の「調整業務」が多く、癖のある職員とのやり取りは、結構ストレスになります。

また、係長というポジションは、「上司や部下との狭間」での縦の関係でのストレスも抱えることになります。

(もちろん、こういったストレスは、公務員に限らず、どんな職種にもあるわけですが・・・)

退職を決意

手術後の1年位は、「軽いめまい」などの症状で、結構しんどかったのですが、それらの症状は段々と良くなっていきます。

しかしその一方で、相変わらず不眠や体のだるさは続いていきました。

加えて、仕事だけでなく、人間関係などを含めた「職場の環境」も重荷となっていました。

プライベートでも人付き合いや、趣味・娯楽などから離れていき、自分でも「うつ状態」と感じるようになり、やがて「仕事を辞めたい」という思いが強くなっていました。

「うつ状態で人生を左右する決断をしてはならない」ということは十分に承知していました。

「公務員という安定した仕事を失うリスク」ももちろん考えます。それでも「この先、仕事を続けていった先の不安」が勝っていたように思います。

診療内科かメンタルクリニックへ行けば、『うつ病』という診断で、病休を取ったりや休職で休むことも可能であったと思います。

また、このとき、もし私が結婚していたり、子供がいるなど「家庭を持っていたら」無理をしても続けていたでしょう。

また、病休や休職は職場に多大な迷惑がかかります。いっそのこと「辞めた方が」という思いが募っていきます。

そんな状況の中、「勧奨退職」という早期退職制度を利用することができる年齢となっていました。

そして「辞める」ということを上司に相談したのです。

このときのことを細かくお話すると、今でも、いろいろなことがフラッシュバックしてしまうので、いつかお話できるときにしたいと思いますが・・・決していい思い出ではありません。

結局のところ、組織にとって職員は「ひと齣の兵隊」でしかないと感じるのでした。

「無理をしてぼろぼろ」になって辞めても、その後は誰も助けてはくれませんし、代わりはいくらでもいます。

もっとも、私自身は「退職の意」を伝えて以降は、「もう少しで解放される」という希望もあってか、気持ちが楽になり、何とか普通に仕事もこなし、引き継ぐことが出来たのでした。

早期退職(勧奨退職)

2014年の3月31日は、私が長年勤めた公務員人生に別れを告げる日です。

先程お話ししたように、早期退職制度「勧奨退職」と呼ばれ、各自治体によって額は異なると思いますが、退職金が割り増しになります。

「大企業が早期退職を募集するニュース」などがときどき流れますが、自治体も経費節減や若返りのために行われています。

退職金の額は一概には言えませんが、定年退職の人とほぼ同額が支給されました。

とはいっても、私の生まれですと、年金は原則65歳支給ですから、それまで約20年間もあります。

また、60歳の定年まで公務員として働くのと、そうでないのでは、当然年金支給額にも影響してきます。(その後公務員の定年延長が法制化され、私の年齢だと定年は65歳になるようです)

無職のままでは、貯金に退職金を足しても10年もつかどうか。

年金額は退職時の概算では月12万円くらい(直近の『ねんきん定期便』では13万円台)なので、その後に厚生年金か国民年金の積み立てがなければかなり苦しい生活になりますし、20年後にどうなっているか、あてになりません。

何か将来に当てがあって辞めるのなら別ですが、そうでないのであれば、普通に考えたら無謀な選択といえます。そう、「明らかに無計画」でした。

もっとも、「勢いで自己都合で退職」ではなく、勧奨退職だったのは大きく、割増しになった退職金は、その後にセブでビジネスを始めるにあたって助けとなりました。

3月31日(退職の日)

4月中下旬の異動内示以降、総務担当課長は忙しくなります。

私はもういない4月1日の新年度に向けての準備もあります。

「いよいよ退職するんだ」というセンチな気分に浸っている暇もなく、事務作業に追われていました。

公務員は、年当初に年休(有給休暇)が20日、繰り越しが最大20日もらえ、私の場合、1月1日の時点で合計40日ありました。

退職に際して、退職までの3ヶ月で、この40日を使い切って「一ヶ月以上まるまる休む」ということも法律上は可能ですが、さすがにこのポジションでそれは気が引けて、体調不良で数日休んだのみでした。

後任者との引継ぎは済ませていますので、最終日はやれることだけやって、後はまかせます。

バタバタした一日も終わり、家路につきます。「本当にこれで最後なんだ」と思いつつ、あっけなくて、あまり実感はない最後の日でした。

退職後にフィリピン英語留学を決意

ただただ毎日が過ぎていく

4月1日から何もしない毎日が過ぎていきます。

最初の1週間は、とにかく家で「疲れを癒す」ことで過ごしました。

いくらでも時間があるから、本も読めるしビデオも見れる。

テレビを見て、昼間からビールを飲んで過ごす悠々自適(自堕落?)な生活です。

「桜でも見に行くか」と昼間から花見です。

2週目になると、同じような毎日に退屈さを覚えるようになり、都内に遠出したり。

父親は何も言わず、いつもと何ら変わりません。「中年ニート状態」で少し居心地の悪さを感じます。

そうだフィリピンへ行こう

5月に入り、ふと「若いころにバックッパカーをしたかった」思いが蘇りました。

丸一ヵ月の完全休養で少し元気になってきたようです。

私が若いころは、海外旅行は今ほど身近ではなく、海外に行きやすくなった頃は、仕事も忙しく、長期で休むのも難しくなりその夢は実現できませんでした。

若いころはバイクが好きだったので、テントを持ってツーリングに出かけました。その頃は、職場も割りとのんびりした雰囲気で、比較的長期間の休みもとれて、北海道とか京都や四国などにも行きました。

しかし、「この年でバックパッカーを始めるというのはちょっと辛い」ものがあります。

ですが、どうせ行くなら「ツアーではなく個人旅行」で行きたい。「しかし全く英語ができない」「まずは旅行英語くらいはできるように勉強しよう」

そこで「フィリピン留学」することに。

留学しながらまずは東南アジアを体験できる訳です。

この辺りは、思いついたらとんとんと決めていきました。

フィリピン留学でセブを選んだ理由

2014年はフィリピン英語学校に日本人資本の学校が参入し始めて間もない頃で、セブとマニラ、バギオ、それとダバオに少しあるくらいだったと思います。

一番多いセブでも、韓国人資本の学校は多くありましたが、日本人オーナーの学校は、それほど多くはありませんでした。

私の場合は、英語力がゼロだったので「日本語の通じる学校」という選択しかありませんでした。

そのなかでも、学生など若者中心の英語留学にあって、こんな中年おじさんでも受け入れてくれる学校を探すのでした。

当時、全くフィリピンについて何も知らなかった私が、セブに決めたのは、「単にリゾート地なので治安も良さそうかな」、という程度(ビーチやマリンスポーツに関心は無く・・・)の、「何となくイメージがいい」という安易なものでした。

初めて一人で海外へ

海外旅行は、若い頃にグループで韓国へ行ったことがあるのみです。

初めての海外一人旅です。

この時はまだ、自分が移住するとも思っていませんでしたから、父とは約半年のしばしの別れくらいの思いです。父もその頃はまだまだ元気で「俺も成田空港まで行く」と片道2時間近くかけ、荷物も一つ持って、見送りに来てくれました。

入国審査の前に第二ターミナルのうどん屋「つるはん 成田国際空港店」で食事をとったのですが、ここは父のお気に入りになって、それ以降は、必ず見送りに来て、そこで食事をするようになりました。

この時はフィリピン・エアラインで、往復チケットを買い、往復で7万円弱だったように記憶しています。

以降はもっぱらLCCのセブパシフィックです。

フィリピンはリターンチケットが必要という認識は2回目の渡航からで、そのころは知りませんでした。(※1)

2回目の時は「捨てチケット」というのを教えてもらって、セブパシフィックのプロモで数百ペソでたしかコナキタバル行きのチケットを買いました。(そのチケットは半年後の日付のチケットで、その間2回使いまわしましたが、そのときは大丈夫でした。)

飛行機の窓から、セブの夜景が目に入ってきたのはもう夜中近く。

空港に降り立ったときのモワッとした空気の感触は今でも覚えています。

その時は、私の「第二の人生」の舞台がフィリピン・セブとなることなど思いもよらなかったのです。

(※1 「フィリピン到着日から滞在可能期間内に出国する有効な往復もしくは第三国への航空券 (バリクバヤンプログラムを申請する方を除く)」(フィリピン入国管理局のHP「お知らせ:令和4年11月以降の外国人の入国要件について

おわりに(人間万事塞翁が馬)

人生を決めた決断

「うつ(状態)で人生を左右する決断をすべきでない」一方で、今振り返れば「あの時点で決断して、限界まで頑張らなくてよかった」とも思えます。

こればっかりは、人生一度きりで「もしも、あの時に違う選択をしていたらどうなっていたか」という答えは、神様しか分かりません。

ただ、退職した後に「英語を学んで海外旅行をしたい」という思いを持ち、それを実行に移す気力が残っていたことが現在の自分につながっています。

「燃え尽きる前で良かった」ことは確かです。

もし、もう一年仕事を頑張って続けていたら、どんな人生を送っていただろうか。

「うつ状態での決断」は難しい問題です。環境を変えて良くなるケースもあれば悪くなるケースもあるでしょう。

私の場合は、退職して「さらに今までとは全く異なる環境」であるフィリピンに身を置くことになります。

日本とはかなり異なる生活が、水に合う人もいれば、ストレスになる人もいるでしょう。幸いなことに私の場合は前者でした。

この違いは「それまでの環境の状況」にもよるし、「本人の状態」や「タイミング」にも左右されるでしょう。いろいろな要素が重なり合って、今に至っています。

セブを選んだ動機は安易なものでしたが、結果的には「よかった」のでしょう。

そこで、「結婚相手」を見つけることができ、「新しい家族」を得て、「ビジネス」も始めることができたのですから。

「人間万事塞翁が馬」

「人間万事塞翁が馬は」は中国の『淮南子』(えなんじ/わいなんし)に載っている話から「一見、不運に思えたことが幸運につながったり、その逆だったりすることのたとえ。幸運か不運かは容易に判断しがたい、ということ」(※1)

英語訳は、「The old man lost his horse(The old man lost his horse (but it all turned out for the best)」とのことですが、映画「Forrest Gump(フォレストガンプ)」の冒頭のトム・ハンクスのセリフ「My mom always said life was like a box of chocolates. You never know what you’re gonna get」から

「Life is like a box of chocolates: you never know what you’re going to get. (人生はチョコレートの箱、開けてみるまで分からない)」

を意訳として用いられることもあるようです。

「Forrest Gump」は邦題が「フォレスト・ガンプ/一期一会」。私の年代ですとご存じの方も多いのではないかと思います、

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のロバート・ゼメキス監督により、第67回アカデミー賞作品賞も受賞した名作です。

二転三転どころではない人生、自分の道を切り開いていくというよりは、まさに作中で描かれる「風によって巻い上げられた羽」のように、一見運命に翻弄されていそうでありながら、純粋な心で、しなやかに人生を歩み、幸せをたぐりよせていく。ストーリーやエピソードは突拍子もなく、ファンタジーっぽい面はあるのですが、見終わると心にジーンとこみ上げてくるものがある映画でした。

私の場合、主人公のフォレストほど波乱万丈ではないけれど、ひとりっ子で内向的な性格で、40半ばまで安定した公務員生活を送りながら、早期退職してセブに移住、フィリピン人女性と結婚し、スクワッター地区で最大13人の大家族と同居、無謀とも言えるフィリピンビジネスに手を出し、ビジネスパートナーに持ち逃げされたりしながら、何とか今に至っています。

何度か、「人生詰んだかな」と思うこともありましたが、「お金ではない幸せ」を感じて、とりあえず、今は、この「セブ暮らし」を後悔することなく、前を向いて人生を楽しみ、『フォレストのように生きられればなあ』と。

そんな、人生半ばを過ぎた中年おとこの様子を、今後何回かに分けてお話していきたいと思っています。

よろしければお付き合いください。どうぞよろしくお願い致します。

(※1)「『人間万事塞翁が馬』の解説」(コトバンク)

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