一時帰国は1週間程度のつもりだったのですが、予定外の問題がいろいろ生じて当面の間滞在することになりました。
「予定外の問題」とは「父の借金(銀行カードローン)返済問題」、「以前亡くなった叔母の遺産相続問題」など。
セブでのビジネスは依然、役所の事務が進展せずにペンディング状態であるのが幸いで?これらの事案に対処するため当面日本に留まることとしました。
『予定通りに物事が進まない』事には、フィリピン生活で随分と慣れてきて、あまりカリカリする事はないのですが、果たしてこの先どうなることやら不安は募ります。
これらのお話しはおいおいブログでもお話ししていけると思いますが、まずは父に関して「海外在住者の介護問題」を私の経験からお話したいと思います。
今回は短期間のつもりだったのでパソコンはセブに置いてきてしまい、タブレットを使っているのですが入力しづらくて慣れません。
父の思い出
私が生まれる以前
父は戦中に予科練生となり『紫電改』という戦闘機に乗ったり、潜水艇(人間魚雷?)などの訓練を受けていたと生前よく話していました。
伯父は以前お話ししたように、フィリピンや満州の戦地に赴いたのですが、父はその前に終戦を迎えます。
そして長崎で終戦を迎え(長崎といっても当時は軍港の街佐世保だったので、原爆の影響は直接は受けませんでした。)、戦後しばらくは実家で家具職人だった伯父の手伝いをしていたのですが、やがて東京に出てきて、知人に母を紹介されて結婚したそうです。
子供は私一人でした。母は私が生まれる前に一度流産しているそうで、本当はもう一人欲しかったようですが、もともと体も弱く体力もあまりない母は、私を生んだ時点で高齢出産という年齢的なものもあり二人目は諦めたようです。
私の幼少期
一人っ子であった事は、その後「フィリピンでの大家族生活を選んだことなどに影響を及ぼしている」と感じる時があります。
父がサ高住(サービス付高齢者住宅)に引っ越す際いろいろ整理していたのですが、幼稚園の先生だった叔母(母の妹)が母に宛てた手紙やハガキがたくさん見つかりました。
私が生まれた時や少しずつ成長する過程でアドバイスも書かれており、既に人見知りの傾向が見られたのか『一人っ子という環境なのでなるべく外で友達と交わるような育て方をしたほうが良い』など。
しかしそれに反して私は決して社交的とは言えない、内向的な性格が形成されて育っていきます。
父は真逆の性格でした。話好きで初対面だろうがなんだろうが、誰とでも臆せず話しができるのです。(基本的には自分の話で相手の話は耳に入らないタイプ)
ケアマネジャーさんの話では、デイケアセンターでも賑やかだったとの事。
少年期から高校まで
今の時代は貧困問題が社会的に取り上げられていますが、私が子供の頃は高度成長期で一億総中流、さらにバブルという時代。
父はもともと予科練生でした。実家の手伝いのブランクがあって東京に出てきたのは30代で、いくつか転職したのち工場の守衛となりました。
ですから、それ程いい収入というわけではなく、一億総中流の世の中で裕福な家庭ではない事は確かでした。その事が私の進路に影響してくるのですがそれはまた別の機会に。
父は夜勤もあって私が学校から帰ると寝ていることも多く、定年退職するまではあまり生活サイクルはあっていなかったような気がします。
母のこと
私は仕事についてからは一人暮らしを始めたので、父の定年後は同居しておらず、たまに帰るくらいでした。きっと母と二人で穏やかな生活を送っていたのだと思います。
母は私が小学生の頃に乳がんとその後肺がんを患ったのですが、がんは治って私が40歳くらいになるまで生きて、最後は心不全で亡くなりました。
母は父とは正反対の物静かな性格でした。母が亡くなった時の父の様子はとても一人にしておくのが心配なほどで、私自身のタイミングもあって、その後同居を始めることになります。
認知症発症以前
父も母の死から立ち直りますが、やがて私自身が色々な問題を抱えるようになり、仕事も辞めることになります。
その時父はもう80歳近くになっていましたが、いたって健康で「自分は100歳まで生きる」とよく言っていたものでした。
確かに大きな病気はしたこともなく、やたら塩分をとるにも拘わらず血圧もそれほど高くはなく、「昭和一桁は凄い」とは感じます。
肉はほとんど食べず、魚ばかり食べており『天丼てんや』の天丼が大好物でした。
私がセブに語学留学する際もビジネスを始める際も、とても元気で私のスーツケースをひとつ持って空港まで見送りに来てくれたのでした。成田空港第二ターミナルのうどん屋がお気に入りで、いつもそこで食べてからお別れしたのです。
この頃は、当面は「日本とセブと行ったり来たりの生活」で大丈夫かと思っていた一方、やはり年齢的なものは心配で、安否確認の意味も含め市の配食サービスを頼んだのですが勝手に解約したりしてました。
理由を聞くと「肉が入っていて食べないからもったいない」(特に鶏肉などが大嫌いでした)との事。介護保険制度の介護予防サービスのなにかでも受けてもらいたかったのですが、その頃はそれも嫌だといって断られてしまいました。
その代わりにほぼ毎日電話をしていたので安否確認にもなり、毎日顔を合わせると喧嘩もするけれども、セブと日本を行ったり来たりして、たまに会うくらいが良かったのかもしれません。
しかし私の方はビジネスを始めてから、ビジネスパートナーを信頼し、たびたび不在にしたりしたことが、ビジネスにおける大きな失敗につながります。これは「セブの5年間を振り返る」の最終回「タクシービジネス編」でお話しします。
認知症発症のサイン
2人目のビジネスパートナーが持ち逃げして(本人は否定していますが)、いずれにせよセブから離れられない時期に父が認知症を発症したのでした。
電話の異変
毎日電話していたのですが、当時はポケットワイファイを使っていて、ネット環境は不安定でした。
数日間電話が通じなかったり、出てもすぐ切れたり、また、何を言っているかよく分からない状態がしばらく続き心配になったのですが、やがて以前のような状態に戻りました。
しかし後になって分かるのですが、グループホームに入っていた叔母の施設代の振込もこの時期から止まっており、この時に何かがあったのです。
この頃、私は結婚ビザの手続きも始めており、移民局にパスポートを預けていました。手続きが終わり次第、一時帰国することにしたのですが、その手続は数ヶ月経っても一向に進展せずイライラが募ります。
やっと一時帰国すると、明らかに父の様子が少し変であることに気がつきます。
電気代の未払と金銭管理
ようやく一時帰国の目処が立ち、飛行機のチケットも取った頃、父から「電気が止められた」との電話。電力会社はシビアです。食べて生活するだけなら年金で充分やっていけるはずなのに、金銭管理ができない状況になっていたのです。
叔母の通帳紛失騒ぎ
以前ブログにも書いた話ですが改めて少し触れます。
毎日のように、携帯で相手と怒鳴ったりして何やらやり合っていました。相手は、長崎で伯母が入所している認知症のグループホームでした。伯母の金銭管理を父がしていたのです。
話を聞くと父は「もう金銭管理はやらないと通帳も印鑑もグループホームへ送った」と言い張っているのですが、相手は「受け取っていない」と押し問答になっているらしいのです。
嫌な予感がしてグループホームに電話すると、数ヶ月分の費用が未納になっていて困っているとのこと。
父は「郵便局から書留で送った」と言い張るので、一緒に訪れて確かめたらそのような記録はないとの事。
伯母は生活保護を受けていたので、市役所の担当者に連絡した上で叔父に連絡し、とにかく一路長崎に向かったのです。
とにかく紛失した郵貯の通帳を再発行しなければなりません。
生活保護費も少額ですが年金もそこに振り込まれているのです。
叔父と施設長さんと一緒に、グループホームの近くの郵便局に本人を連れて行くも、「本人の意思確認ができないと、通帳の再発行はできない」の一点ばり。
叔母はもう96歳くらいだったと思いますが、日中はほとんど寝ていて全く反応はありません。
結局施設からは離れますが叔父がいつも使っている郵便局で再発行してもらえました。
本来は法律や規則は目的のための手段であるにも拘わらず、それ自体が目的になりがちです。文字通りに厳格に運用しないと収拾がつかなくなるという恐れもあるでしょう。しかし、運用するのは機械でなく人間でり、そこを円滑に持っていく知恵や肝があるといいなあと思ったのでした。
後半は以下のような内容をお話ししたいと思います。
- 大事な書類などが捨てられれている
- 大量に惣菜を購入して廃棄するなど明らかにおかしい行動
- あれほど掃除好きだったのに汚れっぱなし
- まずは地域包括へ相談してみる
- 困難事例はケアマネさんで事態は左右されることがある
- 介護認定(要介護2)での一人暮らし
- デイサービス
- 家事援助
- 一旦セブへ
- 私の入院
- 火の消し忘れ騒ぎで独り暮らしは無理と判断
- サービス付き高齢者住宅紹介業者
- 身元引き受け人が海外在住のケース
- デイサービス付きサ高住?とは?
- 要介護3
- 認知症は幸せ?
- 要介護5
- そして母のもとに
- 火葬の手配もサ高住で手配していただく
- 納骨と今後のこと
タブレットからだと写真の挿入の仕方がわからない…..悪戦苦闘
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